こんにちわ~

今日も無事終わりました。ふぅ~


今、旧約聖書のヨブ記を味わっています。

ヨブ記、いろんなこと、思わされますね。また、今まで気づかなかった発見もあります。




今日はヨブ記7章を味わいました。

この箇所は、エリファズに対するヨブの回答なんですが、ヨブの苦しみが、辛さが、絶望感がひしひしと伝わってきます。

でね、7章の17節以降、似たような箇所が詩篇にあるんですが、でもその意味は全然違います。



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ヨブ7:17
人間とは何なのか。
なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか
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これ、詩篇8篇4節ととっても似ています。

詩篇の箇所は、神様の守りに対する畏れと感謝なんですが、このヨブ記7章の箇所は「神様、もういい加減にしてください!私は死にたいんです」っていう呻きと絶えず神様に追い回される嫌悪感から発したことばです。



でね、その中で凄く印象的な箇所は20節です。



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ヨブ7:20
人を見張っている方よ。
わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれは何だというのでしょう。
なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。
なぜ、わたしを負担とされるのですか。

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「人を見張っている方よ」

これ、神様のことですよ。

ヨブは家族を失い、見舞いに来た友だちもあんなんだし、皮膚病で体中をかきむしり、心も体もズタズタ、ギリギリのところで生きていた人です。

だから、ヨブにとっては神様の視線は痛くてしょうがないし、いったいどんな罪を犯したから、こういう状態に追いやられたのかと呻いているんです。

その表現として、「人を見張っている方よ」という言葉に集約されていますね。




ヨブの祈りの中に希望の光を見いだすことは出来ません。

ヨブにとって「神様は人の見張り役」だということは、恐れと重荷です。




でもね、ヨブはこの世の視線でしか見ることが出来ないから、ここで呻いているんですが、じゃぁ、神様はそうやって苦しんでいるヨブを喜んでいるのかというと、決してそうではないですよね。

神様にとってのヨブは、まるで親が子どもに対して目に入れても痛くないほどに可愛く、愛している大切な存在です。

それはサタンとの対話の中でわかりますよね。

神様は意味があってサタンの攻撃を許しています。でもそこには神様の痛みもあります。




私たちはどうなんでしょう?

私たちに対してもまた、神様は見張り役であり、私たちを見張っているお方なんです。

それは欠点を見つけ、過ちを見つけ、罰を与えるためじゃないです。

神様は決して「クリスチャンのくせに!」とか、「悔い改めが足りない!」とか、「祈りが足りない、奉仕が足りない!」などと、常に見張り、信者を苦しめるお方ではないです。

そしてそれは、神様ではなく、サタンの言葉です。



神様は私たちを祝福するため、愛と慰めに満ちた目で見張り続けてくださっているんです。

そして、今、天において私たちのためにイエス様は大祭司として執り成し祈り続けてくださっています。




今ね、書きながら、はっと気づいたんです。

それはね、サタンもまた私たちを見張っているんです。

それは祝福のためじゃなくて、罪を見つけて訴えるため。



ぼくたちが目の前の出来事に心を置くとき、サタンはヒヒヒってほくそ笑み、心に責めを与え、苦しみの渦の中に入れられてしまいます。


だからね、ぼくたちは天を見上げるか、目の前の現実を見つめるか、そのどちらかであって、その選択によって、その先が大きく違って来るんです。


常にぼくたちの目が天に向き、そして苦しみの中にあって、見張り続けてくださっている神様を見つめ、神様に信頼する歩み、していきたいですね。いえ、していきましょうね

それがぼくらの希望だし、唯一の守りであり、慰めですからね



祝福を祈ります
キリストの愛を込めて。。。

でわでわ~