キリストの優しい風

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。

タグ:信仰

こんにちわ~

ふぅ、今日も無事に終わりました


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さてさて、今日もみことばの分かち合い、しますね


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仮借ない苦痛の中でもだえてもなお、わたしの慰めとなるのは、聖なる方の仰せを覆わなかったということです。

ヨブ6:10

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エリファズの責めのメッセージに対するヨブの答えです。

この時のヨブ、心身共にボロボロで、この箇所の前の節である8~9節を見ると、自分の死を願っています。


そういう状況で、「それでもなお、わたしの慰めとなるのは、聖なる方の仰せを覆わなかった」とヨブは言っているんです。

これがヨブの信仰です。



「聖なる方の仰せ」、つまりみことばですね。

私たちもまた、みことばを大切にしたいですよね。



ヨブは完全に希望を失っています。そりゃそうですよね。

だって、ただでさえ、心身共にボロボロの状態なのに、エリファズの無神経な自己本位な発言で、もはや希望が絶たれ、暗闇の中にどっぷり浸かった状態です。


ヨブほどじゃないけど、でも目の前が見えず、不安の中にあること、将来に対する不安、恐れ、自分自身の内にあります。

でもね、そういう中で不安の波に流されるんじゃなくて、「聖なる方の仰せ」つまり、みことばを覆うのではなく、みことばにしっかりと立つことですよね。


ヨブ記を味わっていて、つくづく思わされるのは、ぼくらは目の前のことしかわかんないっていうこと。

実はそれとは別に舞台裏があって、そこ、つまり天において、神様がその御心により、今の状態に置かれているということ、試練も病気もそうなんです。

それは決して神様が意地悪でなんじゃなくて、特別な、最善のご計画を神様がお持ちで、そのためなんだっていうことだっていうことなんです。

そして、祈りはちゃんと天に届いているということ。ぼくらの祈りは天に届いていて、今、大祭司であられるイエス様が天においてぼくらのために執り成し祈り続けておられるんです。



目の前の波だけを見て、流されたとき、サタンはシメシメって思います。

だって、神様から目を反らし、目の前の現実の前に押しつぶされることですからね。


ぼくらは、常に主を見上げ、主に信頼することなんですよね。

そして、聖霊を通してぼくらの内にいますイエス様にしていただくことなんです。


この3月、イエス様に依り頼み、信頼する月となりますように


お互いに主に信頼しましょうね


祝福を祈ります
キリストの愛を込めて。。。

でわでわ~


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こんんちわ~ まんなです。

今日もみことばの分かちあい、しますね  

今日の箇所はヨハネ11章47~48節です。



そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。

「われわれは何をしているのか。あのひとが多くのしるしを行っているというのに。
もしあのひとをこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
 


イエス様がラザロを生き返らせた奇跡、これはメシア的奇跡と言って、メシアでなければ出来ないとパリサイ人たちや律法学者たちが教えていた奇跡です。

そのメシア的奇跡を目の当たりにし、そこにいた民衆はこぞって、この方こそメシアだって信じました。

ところが、信じなかった人たちがいたんです。その人たちはパリサイ人の手下で、この奇跡を見ても感動すること無く、パリサイ人たちのところに行って報告しました。

今日の箇所はその報告を受けたパリサイ人たちの反応です。


そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに」(47)

手下たちの報告を受けて、すぐ議会を召集しました。

報告を受けたのは祭司長とパリサイ人。手下たちはパリサイ人に報告したのに順番は「祭司長とパリサイ人」っておかしくないですか?

実はね、この箇所をもって、祭司長とパリサイ人の権力が逆転したんです。

祭司長というのは、復活を否定しているサドカイ派の人たちです。


で、議会というのはサンヘドリンと言われているもののことで、彼らは急遽その議員たちを召集しました。

突然のことで、当然全員というわけにはいかなかったでしょうね。



で、祭司長とパリサイ人たち、何と言ったかというと、「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに!」

あの人、つまりイエス様のことですね。イエス様が多くのしるしを行っているって彼らは言っているんです。

「しるし」、彼らはイエス様のしるし、このしるしってメシア的奇跡のことです。

っていうことは、祭司長とパリサイ人たちはイエス様がメシアだということは理解しているんです。

これ、凄くないですか!だってその上で「われわれは何をしているのか」って言って、動揺し、焦って居るんですからね。



48節を見ると、彼らの本音がわかります。

もしあの人をこのままにしておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。

どうですか?これが彼らの本音です。

彼らはイエス様がメシアだっていうことは認めています。でもそれよりも自分の立場の方が重要なんです。

もっと言うと、イエス様がメシアだろうかどうだろうが、そんなことはどうでもよいのです。


「ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる」、これ、新改訳聖書の訳ですが、新共同訳聖書ではこう訳されています。

「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」

新改訳聖書で「土地」と訳されているところを、新共同訳聖書では「神殿」と訳しています。

ギリシャ語では「トポス」という言葉なんですが、ここでは新共同訳聖書の「神殿」という訳の方がよいのだと思います。


祭司長たちは神殿、つまり自分の職場や地位が一番重要で、国民のことは二の次なのです。

このまま放っておくと、民衆はイエス様が約束のメシアだと信じ、王として担ぎ出すだろう。そうなったらローマがだまっていない。ローマがきっと介入し、神殿を崩壊し、国を滅ぼしてしまうだろうって思い、焦ったんです。



すごく考えさせられます。彼らは自らの地位を守ることに固執して、結果メシアを拒否してしまいました。

本来、彼らが一番待ち望んでいた筈なのに。。。。



でもね、我々はどうだろうって思うと、あんまり笑えないんです。。。。

もちろん、「そんなぁ~、イエス様、拒否したことなんてないです!」って思われるかもしれません。

でもね、イエス様の御心よりも自分の計画とか、イエス様のやり方よりも自分のやり方っていうこと、ないですか。

そうやって考えた時、ぼくらも彼らと似たり寄ったりだなって思わされるんです。



また、教会レベルでも同じです。

聖書の真理よりも会衆の気持ちとか、教会員の人たちを躓かせないように真理を語ることを控えたり、聖書のみことばを今日の状況に合わせて、自分たちの都合のよいように解釈するとか。。。

イエス様よりも教会員となったとき、これは彼らと似たり寄ったりになってしまいます。


この箇所、すごく考えさせられるなって自分自身、内側を探られました。

純粋に主を畏れ、主の御心に応答し、アーメンと行動する、そして主を常に第一とする者でありたいと心から願います。


だってね、我々は死んだ後、また携挙された後、キリストの裁きの御座での裁きが待っているんですからね。

その時、すべては暴かれるんですからね。

そして、その時主に「よくやった、忠実な良きしもべよ」って言われたいですもんね。



尚、このイエス様のメシア性を拒否した結果、その70年後、神殿は崩壊し、エルサレム自体も崩壊し、ユダヤ人は流浪の民となってしまいました。

イエス様を拒否した結果、彼らが恐れていたとおりのことが起こったのです。

これはとっても厳粛なことですね。。。



でも、私たちは忠実な主のしもべとして、みことばを慕い、みことばに忠実に従う者でありたいですね。

みことばを勝手に私的解釈しようとしたり、主のご計画より自分の計画や願い、好みを優先するようなことをせずね


この箇所を味わいながら、そんなことを思わされました


今週も後半戦、後半も主に従い、主に依り頼んで前進しましょう



でわでわ~

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こんにちわ~

今日も暑かったですね

梅雨も明けたし、今年は例年以上に猛暑となるとのこと、暑さ対策、万全にしたいですよね

そんなことを思わされます。


さてさて、今日もみことばの分かち合い、しますね。



そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を招集していった。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。

もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」

ヨハネ11:45~48
 



ラザロ、生き返りました。

ここで注意する必要があるのは、復活とは何かっていうこと。

復活というのは、今までとは違った体、つまり栄光の体に変えられ、もう死ぬことはありません。

それに対して蘇生とは、死んだ状態から、再び生を受けること。生き返ることですね。でも、その人もある一定期間生きますが、後にその人は再び死んでしまいます。


よくラザロの復活っていうけど、ラザロは復活と蘇生、どちらでしょう。。。。

今、ラザロが生きているなどとは聞いたことはないです。そう、ラザロは死んでいて、今生きていないんです。


だからね、ラザロは蘇生であって、復活ではありません。




さてさて、そのラザロが生き返ったんですが、それを見た群衆とパリサイ人の手下たち、反応が全く違います。


そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(45)

このラザロの蘇生って、メシアじゃなきゃできない奇跡です。

パリサイ派の人たちや律法学者たちはそう教えていたんです。それが目の当たりとされたんです。

「ラビたちが言っていたメシア的奇跡、この方がやってのけた!っていうことはこの方、メシアじゃん!!!」

これが民衆の反応。彼らは単純に、自分たちが教わったことが目の前に起こったから、この方はメシアだって理解したんです。



それに対してパリサイ人の手下たち。

しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。(46)

幾人かの人たち、イエス様の奇跡を見ても素直に信ぜず、パリサイ人たちに報告しました。

へそ曲がり。。。。 率直な感想。。。。

でも実際、そうなんです。イエス様の奇跡を見て、しかもメシアじゃなきゃできないって常日頃聞かされてきた奇跡が今目の前でなされたんですよ。

それでも受け入れず、拒否してパリサイ人たちに報告したんです。


彼らはイエス様をメシアと認めなかったんです。



この箇所を味わいながら思わされたのは、この背後にあるのって反発心だとか、反抗心だとか、そういうものなのかなって思ったんです。

最初っから、イエスはメシアじゃないっていうメガネでイエス様を見ていてるんですよね。

だから、いざメシア的奇跡をされても、固定観念で「それは違う!」ってなっちゃうんです。

っていうことは、信じたくないっていうことなんですよね。。。。



単純な信仰の民衆の人たちとパリサイ人の手下たち、ほんと、対照的ですね。

単純が一番だなぁって思わされます。


でもね、このパリサイ人の手下たちとおんなじようなこと、ぼくたちもやっちゃうことあると思うんです。

もちろん、イエス様を拒否るなんてしないですよね。でもね、単純にみことばを信じるんじゃなくて、自分の小さな小さな経験や判断、考えを土台にして、その範囲内でイエス様を信じるっていうこと、これ、彼らと似たり寄ったりだと思うんです。

或いは、イエス様じゃなくて、自分の内面をじーっと見つめ、これじゃダメだって自分を責めてしまうこと、これもそうです。


私たちの何かを通して、イエス様の働きを制限していたり、そんなの無理だって勝手に決めて、そこにイエス様の力も当て嵌め、制限していないのかっていうこと、すごく考えさせられますね。。。


単純が一番です。

みことばを素直に受け入れること、書いてあることを書いてあるとおりにアーメンと受け入れ、自分にみことばを合わせるんじゃなくて、みことばに自分を合わせること、これがとっても大切なんですよね。

だからこそ、自分の心を見張ることが大事なんですよね。そして、自分がみことばに服し、みことばに自分を合わせているか、みことばの価値観に自分を合わせているか、日々、瞬間瞬間チェックする必要があるんです。


これが健全なクリスチャンなんですよね


今日はこのみことばを味わいながら、そんなことを思い巡らしました


今週も主の見えざる御手の中でのこと、主に信頼し、イエス様を制限せず、単純にみことばをアーメンと受け入れ、自分をみことばに合わせる歩みが出来ますように。。。。


でわでわ~


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