キリストの優しい風

~風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者も皆そのとおりである(ヨハネ3:8)~

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。





タグ:ヨブ記

こんにちわ~ 

今日もみことばを分かち合いますね~



今、旧約聖書のヨブ記を味わっています。

ヨブ記、味わえば味わうほど、すごくヘビーですね。

ヨブの苦しみがビンビン伝わってきます。



でね、今日、味わっていてすごく考えさせられました。 



ヨブ30:24~26

人は、嘆き求める者に手を差し伸べ、不幸な者を救おうとしないだろうか。

わたしは苦境にある人と共に泣かなかっただろうか。

貧しい人のために心を痛めなかっただろうか。

貧しい人のために心を痛めなかっただろうか。

わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。

光を待っていたのに、闇が来た。




ヨブ記30章は、ヨブが、自分はどれほど苦しい思いをしているのかということを、切々と語っている章です。

すべての人に裏切られ、社会の中で軽蔑されていた若者が、なんとヨブをバカにし、あざ笑っています。

しかも彼らはヨブをあざけり、なんと顔に唾をかけたんです。

ヨブは大変な皮膚病に冒され、皮膚は黒ずんではげ落ち、骨は高熱のために焼けただれています。

生き地獄とはこれだって思わざるを得ない状態です。。。。



そういう中で、ヨブの3人の友だちは、ヨブを慰めるどころか、罵り、敵対したのです。

この24節からの箇所を読むと、ヨブは3人の友だちから慰めを受けることを期待したんだなっていうことが伝わって来ます。

だって、それが友だちなんですよね。。。


でも、彼らは正反対のことをしたんです。

友人から受ける責めは、苦しみが、悲しみが倍増します。




でもね、翻って、自分はどうだろうって思わされたんです。 

愛の行動をどれだけ取っているんだろう、慰めの行動をどれだけとっているんだろうってね。

ほんとに考えさせられますね。。。



でもね、同時に思うんです。

それはね、この「愛」とか「慰め」とか、これは自分のじゃないんですよね。

ぼくの愛とか、ぼくの慰めじゃなくて、イエス様の愛、イエス様の慰めですよね。

だって、ぼくの内にイエス様はお住まいになられているんですからね~



☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○

主よ、苦しみのただ中にある方にあなたの愛を流し出す器とさせてください。

あなたの愛を、あなたの慰めを、私を通してお一人ひとりに注いでください。

更に更に、あなたとの関係性を深めさせてください。

そしてその恵みから出る愛を、慰めをもって、回りの人たちと関わらせてください。

自己主張せず、自分の価値判断で人と接するのでもなく、御霊が導かれるままに、イエス様の愛を流し出し、傷ついている人にはあなたの油を私を通して塗ることができますように。

主よ。。。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○



そんなことをこの一日思い巡らしました。

ほんとに足りない者なんですが、愛の人に変えられたいですね 



祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。


でわでわ~

こんにちわぁ~ 

今日も無事終わりました。

それにしても暑かった~もう初夏ですね。

水分補給、ちゃんとやんなきゃね。



さてさて、今、旧約聖書のヨブ記を少しずつ毎日味わっています。

なかなか分かち合えないんだけどね~



今日、味わったのは28章、これはヨブの友人への反論の発言です。


 
ヨブ記28:28

そして、人間に言われた。

「主を畏れ敬うこと、それが知恵

悪を遠ざけること、それが分別」
 


これ、ヨブ記の中でものすごく大事な箇所で、ヨブの主張、ヨブの信仰がこのことばにギュッと凝縮されています。

  • 「主を畏れ敬うこと、それが知恵」
  • 「悪を遠ざけること、それが分別」


ヨブは、自分がどうしてこんなに苦しい思いに追いやられているのか、全く理解出来ません。

ヨブは何度も神様に訴えていますが、神様は沈黙したまま。。


でもね、ヨブは神様の御心を理解出来なくても、でも主を畏れ敬っていました。

それがヨブの信仰なんです。


ヨブの3人の友だちは、ヨブが重罪を犯したから、このような病に襲われ、すべてを失う結果となったんだって主張していますが、でもね、それは間違い。

逆にそうやって神様の御心を勝手にねつ造した友だちこそ重罪なんです。


ヨブはこのみことばをもって、3人の友だちを断罪し、そして自分の信仰告白をここでしました。



「主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別」

これ、ぼくたちに対しても語られているんだと思います。


主を畏れ敬う生活、本当に大事ですよね。 

だってね、主を畏れ敬う生活をすると、自ずと悪を遠ざける結果となりますもんね。


この世は悪に満ちています。

誘惑もいっぱいです。


でも、この悪に満ちた地にあって、主を畏れ敬い、主に依り頼む生き方、主の御手の中で養われるライフスタイル、持ち続けていきたいですね。

主を畏れ敬うライフスタイル、実践しましょうね。



祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。


でわでわ~

 

こんにちわぁ~

今日はみことばの分かち合いしますね

旧約聖書のヨブ記です。




ヨブって本当に大変な中を通らされた人です。


だってね、最初、幸せな中で、家族にも恵まれ、神様を第一とした歩みをしていました。

そんなヨブ、突然酷い皮膚病に冒され、灰の中に座り、素焼きのかけらで体中を掻きむしる状態とされました(ヨブ2:8)。

そしてヨブの奥さんからも罵倒され、すべてを失ってしまったんです。。




それだけじゃないです。

なんと、見舞いに来た筈の友だちからも非難され、しかも22章を見ると、友だちの一人エリファズから濡れ衣を着せられ、悔い改めよって言われてるんです。

神様に訴えても、神様は沈黙されたままで、何も答えてくださいません。

ヨブの心を思うと、心痛くなりますね。。。



ヨブ23:8~9 
あぁ、私が前へ進んでも、神はおられず、 うしろに行っても、神を認めることができない。
左に向かって行っても、私は神を見ず、右に向きを変えても、私は会うことが出来ない。



これがヨブの状態です。


でもね、思うんですが、私たちもヨブみたいな最悪の状態では無いにしろ、説明不可能な苦難というか、苦しみの中に入れられてしまうことってあると思うんです。

祈っても、もがいても、解決されない。




ぼくもありました。

その時、呻いて呻いて、誰もいない教会で大声を上げて祈っても、どうにもなりません。

しかも、病で倒れてしまいました。




そして、もはや何も出来ない状態となり、その時、始めてわかったんです。

あぁ、ぼくの内には何も無いんだなぁってね。


どんなに大声で祈っても、何とかしようともがいても、どうすることも出来ませんでしたが、倒れたとき、始めて、自分の無能さがわかり、神様に頼るレッスンを受けるようになったんです。




苦難って、変な言い方なんだけど、ある意味恵みなんです。

逆に言うと、苦難に遭わなければならないほど、人間って頑ななんです。


そして、下を見ると真っ暗、その穴に落ちないよう、頑張って信仰を働かせて、もがいて、呻いて、主よーーー!!!って祈ります。

でも、その間は主は沈黙したまま、何も答えてくださいません。





今、はっきり言えるのは、その時、手を離して落ちてしまえばいいんです。

乱暴な言い方でごめんなさい、だってね、落ちた先ってどこだかわかりますか?

イエス様の優しい御手の中なんです。




私たちは、今の苦しみ、まるですべての道がふさがれたように見えても、でもその中で主を見上げ、主に信頼し、今与えられていることに忠実でありたいですね。

そして、頑張って握りしめているその手を、勇気を出して離し、落ちてしなうことです。

そう、優しいイエス様の御手の中に。。。



祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。


こんにちわ~

今日も無事終わりました。ふぅ~


今、旧約聖書のヨブ記を味わっています。

ヨブ記、いろんなこと、思わされますね。また、今まで気づかなかった発見もあります。




今日はヨブ記7章を味わいました。

この箇所は、エリファズに対するヨブの回答なんですが、ヨブの苦しみが、辛さが、絶望感がひしひしと伝わってきます。

でね、7章の17節以降、似たような箇所が詩篇にあるんですが、でもその意味は全然違います。



☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆
ヨブ7:17
人間とは何なのか。
なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆



これ、詩篇8篇4節ととっても似ています。

詩篇の箇所は、神様の守りに対する畏れと感謝なんですが、このヨブ記7章の箇所は「神様、もういい加減にしてください!私は死にたいんです」っていう呻きと絶えず神様に追い回される嫌悪感から発したことばです。



でね、その中で凄く印象的な箇所は20節です。



☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆

ヨブ7:20
人を見張っている方よ。
わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれは何だというのでしょう。
なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。
なぜ、わたしを負担とされるのですか。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○


「人を見張っている方よ」

これ、神様のことですよ。

ヨブは家族を失い、見舞いに来た友だちもあんなんだし、皮膚病で体中をかきむしり、心も体もズタズタ、ギリギリのところで生きていた人です。

だから、ヨブにとっては神様の視線は痛くてしょうがないし、いったいどんな罪を犯したから、こういう状態に追いやられたのかと呻いているんです。

その表現として、「人を見張っている方よ」という言葉に集約されていますね。




ヨブの祈りの中に希望の光を見いだすことは出来ません。

ヨブにとって「神様は人の見張り役」だということは、恐れと重荷です。




でもね、ヨブはこの世の視線でしか見ることが出来ないから、ここで呻いているんですが、じゃぁ、神様はそうやって苦しんでいるヨブを喜んでいるのかというと、決してそうではないですよね。

神様にとってのヨブは、まるで親が子どもに対して目に入れても痛くないほどに可愛く、愛している大切な存在です。

それはサタンとの対話の中でわかりますよね。

神様は意味があってサタンの攻撃を許しています。でもそこには神様の痛みもあります。




私たちはどうなんでしょう?

私たちに対してもまた、神様は見張り役であり、私たちを見張っているお方なんです。

それは欠点を見つけ、過ちを見つけ、罰を与えるためじゃないです。

神様は決して「クリスチャンのくせに!」とか、「悔い改めが足りない!」とか、「祈りが足りない、奉仕が足りない!」などと、常に見張り、信者を苦しめるお方ではないです。

そしてそれは、神様ではなく、サタンの言葉です。



神様は私たちを祝福するため、愛と慰めに満ちた目で見張り続けてくださっているんです。

そして、今、天において私たちのためにイエス様は大祭司として執り成し祈り続けてくださっています。




今ね、書きながら、はっと気づいたんです。

それはね、サタンもまた私たちを見張っているんです。

それは祝福のためじゃなくて、罪を見つけて訴えるため。



ぼくたちが目の前の出来事に心を置くとき、サタンはヒヒヒってほくそ笑み、心に責めを与え、苦しみの渦の中に入れられてしまいます。


だからね、ぼくたちは天を見上げるか、目の前の現実を見つめるか、そのどちらかであって、その選択によって、その先が大きく違って来るんです。


常にぼくたちの目が天に向き、そして苦しみの中にあって、見張り続けてくださっている神様を見つめ、神様に信頼する歩み、していきたいですね。いえ、していきましょうね

それがぼくらの希望だし、唯一の守りであり、慰めですからね



祝福を祈ります
キリストの愛を込めて。。。

でわでわ~

こんにちわ~

今日も無事終わりました~

今週も後1日、ほっ


さてさて、今日もヨブ記を味わいました。

ヨブ記、読んでいるといろいろと思われますね。

今日もヨブの気持ちを思い、複雑な思いでみことばを味わいました。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆

絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ。
さもないと、全能者への畏敬を失わせることになる。
ヨブ記 6:14

☆★○☆★○☆★○☆★○☆

この箇所、友人であるエリファズの発言に対するヨブの返事です。


「絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ。さもないと全能者への畏敬を失わせることになる」

このみことば、ものすごく心に響きました。


友だちが絶望し、苦しんでいるとき、落ち込んでいるとき、どういう態度を取るかですよね。

残念ながら、エリファズは失格です。

彼はヨブの必要に対し、何の助けにもならなかったんです。



ぼく自身もそうですね。

苦しんでいる時、こうするべきだとか、そういう言葉よりも、祈り、寄り添ってもらう方がどんなにか力になるか。

みんなそうだと思います。


友に対して、忠実でありたいですね。

その人のために祈り、寄り添う者でありたいです。


でもね、大事なことは、たとえ誰も理解してくれなくても、慰めてくれるような人がたとえいなくても、ただ一人、私たちの苦しみを全部知っている友がいます。

彼は私たちのために日夜祈っていてくださっています。

そして、彼自身が計り知れないほどの苦しみ、痛みに遭われましたから、ぼくらの痛みも、苦しみも、悲しみも全部理解し、丸ごと受け入れてくださいます。

その方はイエス・キリストです。

イエス様は私たちも真の友であり、最高の執り成し手です。

今も天においてぼくのために執り成し、祈っていてくださっています。

だって、今、イエス様は大祭司であられますからね。


そして、天で執り成し祈っていてくださっているイエス様は、同時に聖霊によって今ぼくの内にお住まいになられています。


そうなんですよね、そう、人を見るんじゃなくて、イエス様を見つめることですよね。

イエス様は絶対に見放したり、見捨てたりするお方じゃないんですからね。


今月も真の友、親友であられるイエス様に信頼し、依り頼む歩みとなりますように


祝福を祈ります
キリストの愛を込めて。。。

でわでわ~

こんにちわ~

ふぅ、今日も無事に終わりました


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さてさて、今日もみことばの分かち合い、しますね


☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★

仮借ない苦痛の中でもだえてもなお、わたしの慰めとなるのは、聖なる方の仰せを覆わなかったということです。

ヨブ6:10

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★



エリファズの責めのメッセージに対するヨブの答えです。

この時のヨブ、心身共にボロボロで、この箇所の前の節である8~9節を見ると、自分の死を願っています。


そういう状況で、「それでもなお、わたしの慰めとなるのは、聖なる方の仰せを覆わなかった」とヨブは言っているんです。

これがヨブの信仰です。



「聖なる方の仰せ」、つまりみことばですね。

私たちもまた、みことばを大切にしたいですよね。



ヨブは完全に希望を失っています。そりゃそうですよね。

だって、ただでさえ、心身共にボロボロの状態なのに、エリファズの無神経な自己本位な発言で、もはや希望が絶たれ、暗闇の中にどっぷり浸かった状態です。


ヨブほどじゃないけど、でも目の前が見えず、不安の中にあること、将来に対する不安、恐れ、自分自身の内にあります。

でもね、そういう中で不安の波に流されるんじゃなくて、「聖なる方の仰せ」つまり、みことばを覆うのではなく、みことばにしっかりと立つことですよね。


ヨブ記を味わっていて、つくづく思わされるのは、ぼくらは目の前のことしかわかんないっていうこと。

実はそれとは別に舞台裏があって、そこ、つまり天において、神様がその御心により、今の状態に置かれているということ、試練も病気もそうなんです。

それは決して神様が意地悪でなんじゃなくて、特別な、最善のご計画を神様がお持ちで、そのためなんだっていうことだっていうことなんです。

そして、祈りはちゃんと天に届いているということ。ぼくらの祈りは天に届いていて、今、大祭司であられるイエス様が天においてぼくらのために執り成し祈り続けておられるんです。



目の前の波だけを見て、流されたとき、サタンはシメシメって思います。

だって、神様から目を反らし、目の前の現実の前に押しつぶされることですからね。


ぼくらは、常に主を見上げ、主に信頼することなんですよね。

そして、聖霊を通してぼくらの内にいますイエス様にしていただくことなんです。


この3月、イエス様に依り頼み、信頼する月となりますように


お互いに主に信頼しましょうね


祝福を祈ります
キリストの愛を込めて。。。

でわでわ~


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