キリストの優しい風

~風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者も皆そのとおりである(ヨハネ3:8)~

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。





キリスト

携挙の恵み

こんにちわ~

今週も無事終わりました

ほっ

今日もこうやってブログやれてること、とっても感謝です。



さてさて、Twitterに今日ツイした内容です。 







この箇所、とっても有名な箇所で、「喜び・祈り・感謝」ってよく言って、賛美もありますね。

有名なんですが、その内容の意味とか、深みとか、パウロがどういう思いでテサロニケの人々に向けてこの言葉を書いたのかって伝わってきません。


でも、この箇所だけピックアップするんじゃなくて、テサロニケ人への第一の手紙全体を読んで、その流れっていうか、文脈の中でこの「喜び・祈り・感謝」箇所を味わうと、ほんと、深いんです。

っていうか、印象がガラッと変わります。



このみことば、もう一度改めて書きますね。





☆★○☆★○☆★○☆★

第一テサロニケ5:16~18
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

☆★○☆★○☆★○☆★



ぼくたちは時に喜べないこともあります。

口ではいくらでも「喜びましょう~」とか「感謝しましょう~」みたいなこと、言えますが、でも、実際、喜びどころか、不安に押しつぶされそうになることがあります。

大切な人を亡くした悲しみ、それもですよね。。


でもね、パウロはそんな無責任な思いでこんなことを言ってるんじゃないんです。

きれい事じゃなくて、本当に苦しい迫害の中、将来、再臨のイエス様にお会いすることが出来る、まもなく私たちは携挙され、イエス様とお会いするんだっていうところから来る喜びなんです。


初代教会の信者たちの希望、喜びって、携挙されること、イエス様がまもなく戻って来られるというところにあるんです。



同じ第一テサロニケ4章16~18節にはこうあります。




☆★○☆★○☆★○☆★
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。
それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主とあうのです。
このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
☆★○☆★○☆★○☆★





 これを「携挙」っていうのです。

そしてこの携挙はまだ起こっていませんが、これから、というか、まもなく起こる出来事です。

神様のラッパが鳴り響き、イエス様が私たちクリスチャンを迎えに天から空中まで降りて来てくださります。

そしてその時、先に亡くなったクリスチャンの方々がよみがえるのです。

もちろん肉体をもってね。

でもその時、専門用語で「栄化される」っていうんですが、栄光のからだにされてよみがえります。

栄光のからだって、 傷も染みもない姿です。

もはや罪もありませんし、罪を起こそうという概念すらその人にはありません。

だからね、アンチエイジングなんて、もはや死語だし、当然全員完全すっぴんです。

だって、イエス様の栄光で輝いているんだから、もうお化粧なんて必要ありません。

それとね、病気だって無いんですよ。

そして栄光のからだにされて、空中まで迎えに来られたイエス様のもとに一挙に上げられていくんです。 


そしてね、次にその時に生きている人たちは、瞬間的に栄光のからだに変えられて、一挙に天にあげられます。


そして、天に上げられて、待っているのは、イエス様との結婚式です。

霊的には男性であっても女性であっても、イエス様の花嫁で、クリスチャンはイエス様との婚約中で、イエス様が迎えに来られるのを今か今かと待っている状態なんです。

そして、携挙されて、イエス様との結婚式です。


私たちは携挙され、祝福の内に結婚し、イエス様を賛美し、ほめたたえます。

そう、礼拝です。


そして、イエス様が再臨されます。

その時、私たちもこの地上に戻って来て、私たちと同じ異邦人のクリスチャンを治める働きをするんです。



パウロは、そのことを本気で信じていて、その日がわかっていて、それは確実に起こることを知っているから、だから喜ぶことが出来たんです。

パウロは地獄のような迫害を受けていましたが、その中でのモチベーションは「携挙」だったんです。



パウロは「こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい」って言われました。



イエス様はまもなく、私たちを迎えに来てくださいます。

そして、安心してください。私たちクリスチャンは一人も、一人も失格者はいないんです。

そう、救いは絶対に絶対に失いません。

一度救われたら、たとえ罪を犯しても、失敗しても、たとえ法に触れるような犯罪を犯してしまったとしても、失うことはありません。

自殺したとしてもです。


そして、試練の中にあっても、悲しみの中にあっても、イエス様は私たちの内に住んでいてくださっています。

ここに希望があり、そこに信頼すること、これが祈りなんです。


このことがわかっているから、そしてまもなく迎えに来てくださるから、感謝が生まれてくるんです。



ぼくたちはこの地上生活だけを考えていたら、死後に希望を見いだせなかったら、それは地獄であって、喜ぶことも、感謝することも出来ないでしょう。当然です。

でも、まもなくイエス様がぼくたちを迎えに来てくださるんです。

ハレルヤ、そこにこそ希望があり、喜びがあるんです。



主に信頼すること、主の愛の守りに身を任せること、そして携挙を待ち望みましょうね。

ここに深い深い慰めがあります。

主よ、来てください。。。



明日から新しい一週間、そして週の初めの日である明日、日本中で礼拝がもたれます。

心から主を賛美し、主を礼拝する日となりますように。。。



祝福を祈ります
キリストの愛を込めて。。。

でわでわ~  







 

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イエス様の祝福が豊かにありますように。

キリストの愛を込めて。。。





 

しもべの心を持とう!

こんにちわ~

今日は久しぶりの晴れ、ず~~っと雨、雨、雨でしんどいなぁ~って思ってたんで、久しぶりの青空に癒やされる一日でした。

やっぱ、晴れ、いいですよね。

ここ数日、お疲れモードだっただけに、モヤが取れたみたいな、ホッとしています。

とはいうものの、今夜は熱帯夜、明日はすご~く暑いみたいですけどね~



さてさて、話は変わるんですが、今朝、みことばを味わいました。ルカ17章です。

弟子としての奉仕の在り方について、イエス様がお話されている箇所です。




使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」


しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。


ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野から帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事しなさい』としもべに言うでしょうか。


かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。


しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。


あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」






この箇所の前半は昨日分かち合いましたね。

今日はこの箇所の後半を味わったんです。


今日味わったのは、忠実なしもべについてです。


ぼくたちの社会の中で、しもべとか言われても、正直ピンと来ないですよね。

だからね、この箇所を読んでもなかなかピンと来ないというのが本音でした。


ねぇ、主人が帰って来て、優しい主人だったら、きっと「ごくろうさま、一緒に食べよ」って言うんじゃないのかなぁとかね。

でも、これ、何度も言ってますが、悪い例ですよね。現代に置き換えて聖書を読むことはとっても危険です。


でね、当時の習慣はどうったのかというと、そんな「一緒に食べましょう」なんて言う主人はどこ探しても一人もいません。

むしろ主人はしもべに食事を当たり前のように作らせ、用意をさせました。

じゃぁしもべはいつご飯を食べるのかというと、主人が食べ終わってからです。


で、しもべが忠実に一生懸命に働いたからといって、主人はしもべに感謝を表すようなことはしませんし、ありがとうのあの字も出ません。

だって、しもべは忠実に仕えて当たり前ですから。

これがイエス様の時代の主人としもべの関係なんです。



でもイエス様、こうやって見ると、当時の人たちの生活に密着した話をされていますよね。

きっと聞いている側はすご~~~くわかりやすかったことでしょうね。



あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「わたしは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい(10節)。

イエス様、ここで弟子の姿勢についてお話されています。

この主人としもべの関係を通して、イエス様の弟子としてどういうスタンスでいるべきなのかについてお話されたんです。


ここ新共同訳聖書では「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです」、口語訳聖書では「わたしたちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません」と訳されています。


この箇所を味わいながら、ここには自己主張はないなぁっていうことを感じました。

「これだけやったから」とか、「ちっとも認めてくれない」とか、自分の権利を主張したり、見返りを求めたり、そういうことは全然ないですね。

逆に「取るに足りない僕です」って、そこにあるのは自己主張や我を張るんじゃなくて、しもべとしてのへりくだりです。



自分の内にどれだけあるんだろうって考えさせられました。

でも思ったんですが、イエス様こそ、このスタンスだったんですよね。

だって自己主張せず、父なる神様の御心だけを行い、父なる神様の御心をいつも第一とされていました。

しかも十字架にまでかかられ、最後の最後まで一切自己主張せず、まさに「取るに足りないしもべです」のスタンスだったんですよね。



あぁ、まだまだ足りない者だし、自己主張が出てしまう面も多々あるんですが、でもね、一歩一歩、この「取るに足りないしもべです」のスタンス、イエス様の弟子として、へりくだり、しもべの心で歩んでいきたいなって思わされました。

でも、これも自分の力で、がんばって「しもべになるんだ~~」ってやっちゃダメですよね。

これやった瞬間にしもべじゃなく、自己主張になっちゃいますよね。


ぼくらが努力してしもべの心を身につけるんじゃなくて、内なる聖霊にしていただくんです。

だからね、聖霊に対して心をオープンにしている必要があるんですよね。


私たちじゃなくて、主にしていただく。これなんですよね。

だって、すべては主の御手の中でですからね




今日一日、そんなことを思い巡らしていました。

明日は土曜日、一週間の最後の日、明日も主に信頼し、しもべの心で歩んでいけますように


でわでわ~


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