キリストの優しい風

~風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者も皆そのとおりである(ヨハネ3:8)~

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。





カテゴリ:バイブルスタディー > ヨブ記

こんにちわ~ 


昨夜、ヨブ記からの分かち合いをしました。

で、その後、ずっとひとつのみことばが心にあって、思い巡らしています。

それは、42章7節の後半から始まる、神様がテマン人エリファズに語られたことばです。



で、ここで神様はヨブのことを終始「わたしの僕ヨブ」って言ってますよね。

そこに神様の優しさを感じていたんです。


神様と論争しようとしたヨブ、そのヨブが自分の愚かさと如何に何も出来ないのか、無知なのかを思い知らされ、悔い改めたとき、神様はヨブの罪をお赦しになられました。

そして彼は再び義とされたんです。


それだけじゃなくて、っていうか、それだけでも感謝なのに、なんと神様はヨブのことを「わたしの僕」だって、そうヨブを評価されたんです。


ヨブに対する愛が並々ならないなぁって思わされたんです。



でね、ぼくたちもおんなじなんですよね。

イエス様の十字架と復活の福音を信じ受け入れ、罪赦され、救われた私たちもまた、神様は「わたしの僕」って呼んでくださっているんです。

ぼくたちが救われるって、実は凄いことなんですよね~

しみじみそのことを思い巡らしました



ぼくたちは罪赦され、罪の奴隷から完全に解放され、自由とされました。

そのぼくたちが今度は、「神のしもべ」として、主を愛し、主のしもべとして喜んで歩んでいける、これは本当に恵みであり、幸いなことなんだなぁって思います。

お互いに「神のしもべ」としてのライフスタイル、感謝をもって過ごしましょうね

これこそが私たちの幸せです。

ハレルヤ



祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。


でわでわ~






 

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イエス様の祝福が豊かにありますように

キリストの愛を込めて。。。





こんにちわ~ 

今日もみことばの分かち合いをしますね。

今日もヨブ記です。




ヨブ記、好きな人、苦手な人、いろんな人がいると思います。

でもね、ヨブ記を味わっていて、すごく感じるのは、信仰の根本が探られるというか、取り扱われるなっていうこと。

そして自分と神様との関係性が変えられていきます。

そういう意味でも避けてはいけない大切な書なんだなって思います。




でね、今日は42章、ヨブの悔い改めの箇所を味わいました。


ヨブ記42:1~6

ヨブは【主】に答えて言った。

あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。

「これは何者か。知識もないのに神の経綸(けいりん)を隠そうとするとは。」

そのとおりです。
わたしには理解できず、わたしの知識を越えた驚くべき御業をあげつらっておりました。

「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」

あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。



これがヨブの悔い改めのことばです。

ヨブは、自分は何も知らないし、何もすることが出来ない小さな小さな存在だということを、神様が問われた質問を通して痛感し、今、心からの悔い改めに導かれています。



神様は「これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは」とおっしゃいましたが、まさにこれ、ヨブのことです。

神様の偉大さ、その権威に満ちたお方、愛深さ、何一つ、ヨブの理解を遙かに超えています。

とてもじゃないけど、理解することなんて不可能です。

でも、ヨブは神様に対して、神様の御心も知らずに、神様に文句を言い続けてきました。

今、神様を前にして、ヨブはもはやなんと愚かな行為をしてしまったのだろうという思いでいっぱいで、神様の赦しを頂くしか他にありません。




ヨブは5~6節でこう締めくくっています。


あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。



ヨブは「今、この目であなたを仰ぎ見ます」って言ってますが、これ、比喩、ビジュアル的にわかるよう、こういう表現をしているんであって、実際バーンと神様がヨブに現れ、神様を見たー!っていうことじゃないですよ。

人間が神様を見て、生きていることなど出来ません。それほど神様は聖いんです。



でも、ヨブは神様と直接話し、神様を体験しました。

そして、もはや自分の無知さ、そして偉そうに知ったかぶりを語り、神様を責めるような言葉を発した愚かさ、その傲慢さを深く悔い改めているんです。




ヨブはこの時を境に変えられました。

彼の信仰はがらっと変わったんでしょうね。



あぁ、自分はどうなんだろうって思わされます。

自分の無知さを痛感するし、なんかヨブとおんなじだなぁって思わされます。



でもね、だからこそ、イエス様の十字架と復活の恵みの大きさを実感するんです。

神様の愛の前に圧倒されるし、こんな自分を愛してくださり、受け入れてくださっているその恵み深さの前にただただ感謝としか言いようがありません。




サタンの攻撃は相変わらず、でもぼくらクリスチャンはイエス様がおられます。

イエス様は今、天で大祭司として執り成し祈り続けてくださっています。

そして、天のお父様にぼくたちのことを訴えているサタンに対して、最高の弁護者であられるイエス様が弁護してくださっています。



だから、大胆に天のお父様の御前に出ることが出来るし、「お父様」って心を込めてお祈りも出来ます。

これが今のぼくたちのスタンスなんですよね。



自分は何者でもないことを認めること、そしてヨブと同じで、何も知らないということを受け入れること、これが傲慢な態度から解放される鍵なんですよね。

そして、へりくだって、神様のご計画の深さ、その確かさに心注ぎ、信頼する、つまり主の御手の中に留まり、安息すること、これが真のクリスチャンライフなんだなぁって、このヨブ記を味わいながら思わされています。




試練は辛いです。苦しいです。「なんで?!」って思っちゃうこともあります。

でも、それは目で見えるところだけで、舞台裏を知らないから苦しいんです。

でも、その舞台裏で、神様はそのことに対する御心を持たれておられ、クリスチャンがそのことを理解し、主を見上げ、「なんで」信仰から、「信頼」信仰へ心の目をシフトすることを願っておられます。




ヨブ記を味わいながら、ずっと詩篇23篇、有名な箇所なんですが、この中の5節がずっと心にありました。


わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。



神様はわたしたちに豊かな食卓を整えてくださり、頭に香油を注いでくださるお方。

でもそれは、豊かな時、満足している時、成功している時、問題がなく平穏な暮らしをしている時だけじゃないんです。

ダビデは歌ってますね、「わたしを苦しめる者を前にしても」って。

そう、試練の中、苦しみの中、最悪の状況のそのただ中で食卓を整え、香油を注いでくださるお方、これが神様のなさる方法なんです。



これ、問題だけを見ている時には気づかないですよね。

結果、「なんで」の祈りになっちゃいます。



でもね、神様は状況に支配されないお方、どんな最悪な状況であっても、死を前にしたとしても、そのど真ん中で食事を整え、香油で満たしてくださっているお方なんです。

だから、その苦しみのただ中で主を見上げるなら、たとえ状況は変化しなくても、心は平安になり、結果、「わたしの杯は溢れています」っていう告白へとつながります。



自分自身もこうやって書きながら、ほんと、そうだなぁって思わされています。

ご一緒に「なんで」の祈りを止めにして、いつもイエス様を見上げ、イエス様の優しい御手の中に留まる安息生活を送りましょうね。


祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。


でわでわ~






 

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イエス様の祝福が豊かにありますように

キリストの愛を込めて。。。





こんにちわ~

今日も無事終わりました。

そして、今週もあと1日です。主よ、感謝します



今日もみことばの分かち合いをしますね。

このところ、ずーっとヨブ記からの分かち合いをしていて、ヘビーだなぁって感じてる人もいるでしょうね。

だって、ぼく自身もけっこうヘビーだなぁって感じるもん(笑)




でもね、このヨブ記を味わう中で、すごく自分自身が取り扱われ、神様の前において、自分は何者か、何様かっていうことがわかり、悔い改めに導かれています。

ヨブ記って取り扱いの書なんだなぁってしみじみ思わされています。




でね、今日は40章6節からの、神様のヨブへの質問、第二ラウンドです。



ヨブ記40:6~8

主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。
 
男らしく、腰に帯をせよ。
お前に尋ねる。わたしに答えてみよ。
お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪にするために、わたしを有罪とさえするのか。
 


ヨブは神様を責めました。

悪者を見逃しているってね。

それに罪を犯していない自分がどうしてこんな苦しみに遭わなきゃならないんだってね。



でもね、神様はそのヨブに対して何と言ってるかというと、「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪にするために、わたしを有罪とさえするのか」ってヨブにおっしゃっています。

これ、強烈な言葉なんだけど、でも真理なんですよね。

だってね、ヨブが語ってきたことって、結果的に神様と同レベルに、いや、それどころか神様よりも上に自分を置いて、神様を罪に定めていることなんですからね。



神様はそれに対して、「お前が神にも劣らぬ腕をもち、神のような声をもって雷鳴をとどろかせたら、すべての驕り高ぶる者、神に逆らう者を打ち倒し、一人残らず塵に葬り去り、墓穴に放り込んだら、わたしはお前をたたえよう」っておっしゃいました。

「お前が自分の右の手で勝利を得たことになるのだから」(14)ってね。



これ、神様にとっては朝飯前のこと、神様は全知全能のなるお方、すべてを創造され、すべてをご自分の御手で治めておられるお方、どんな地上の悪人であっても、神様の権威の前には何一つ刃向かうことは出来ません。

雷鳴、自然界もまた神様が創造され、治めておられます。

だから、ご自分の権威で、その権威に満ちた声で雷鳴をとどろかすことなど、いとも簡単であり、それだけの権威に満ちたお方です。



もしヨブが神様と同レベルで、神様を裁く権威があるのであるなら、これらのことをヨブも出来なければなりません。

でも、ヨブには、こんなことは出来ません。

神様は、こうやってヨブに自分の内面を見せて、悔い改めへと導いておられるんですね。




これ、すごく思わされるんですが、ヨブと同じ事、私たちもやってるなぁって感じます。

自分の思い通りにならないとき、道がふさがれてどうしようもないとき、病が癒やされず、苦しみと悲しみの中に入れられているとき、ヨブみたいに「神様、どうしてですか!あなたが愛なるお方なら、どうしてこういう苦しみにいられているんですか」って、神様に祈ってないかなって、すごく探られます。


でも、これ、実は自分を神様と同レベル、いやヘタしたら神様よりも上に置いて、神様は愛のお方だから道を開かなければならない、病を癒さなければならないって、神様を罪定めしたり、自分の理想へとコントロールしてるんですよね。

今回、この箇所を味わいながら、すごく自分が怖いなっていうことと、神様の権威に全幅することの大切さを実感しました。



神様はご自身の権威をもって、私たちを導かれ、私たちに対するご計画を持って、その意図に即して導いておられます。

その神様の主権に服し、試練の中で主に信頼し、安息すること、これが信仰者の姿なんですよね。

そして、これがキリストの弟子のスタイルなんですね。



今回、そのことをみことばを通して教えられました。

主に身をゆだね、主の優しい御手の中で、主になしていただきましょうね。


祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。


でわでわ~




 

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イエス様の祝福が豊かにありますように

キリストの愛を込めて。。。





こんにちわ~

今日、二つ目の投稿です。


今回は、旧約聖書のヨブ記からの分かち合いです。

ヨブ記40:1~5
ヨブに答えて、主は仰せになった。

全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。
神を責め立てる者よ、答えるがよい。

ヨブは主に答えて言った。

わたしは軽々しくものを申しました。
どうしてあなたに反論などできましょう。
わたしはこの口に手を置きます。
ひと言語りましたが、もう主張いたしません。
ふた言申しましたが、もう繰り返しません。

38章から始まった、神様のヨブへの質問の締めくくりです。

「全能者と言い争う者」って、これ、ヨブのことですよ。

「神を責め立てる者」もそう。

ヨブはこれまで、神様が自分と争っているって、二回も言っています(10:2、23:6)。

だから、そのヨブに対して逆に、神様は「全能者である神と言い争い、責め立てているヨブよ、なぜ黙っているのか、このまま引き下がるつもりか!」って、おっしゃっているんです。



でもね、「どうなんだ!」って言われても、もうヨブには何も答えられません。

だって、神様の御業なんて何一つ出来ないし、神様は被造世界をお造りになり、支配し、コントロールされている全能なるお方、このお方に被造物に過ぎないヨブは何も答えられません。


このときのヨブの心は、自分が如何に小さくて、何も出来ない存在で、取るに足らない者なんだって痛感していました。

だからね、「ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」って、口に手を置き、「どうしてあなたに反論などできましょう」と語った後、このように語ったんです。

ヨブは、これまで、三人の友人との会話の中で、如何に自分が軽々しく語って来たのかを痛感しています。

自分のちっぽけさ、弱さ、愚かさを嫌というほど教えられ、なんと愚かな、軽々しいことを言ってきたのだろうって後悔しています。



でもね、ヨブに足りないことがひとつだけあります。

それはね、悔い改め。

彼は後悔して口は塞いだんだけど、神様の前に悔い改めはしていません。


悔い改めと後悔って違いますよね。

ヨブは確かに、神様の前に自分の愚かさや小ささを教えられ、後悔しています。

だから、もう口を塞ぎますって語っています。

でもね、これ、悔い改めじゃないです。



ここで、ひと言言うと、この時点ではイエス様は十字架にかかられていないし、ヨブはイエス様のイの字も知りません。

だから、イエス様の十字架の赦しを求めることも、十字架にかかられるのを待ち望むことも出来ません。

でもね、このヨブに与えられている範囲で悔い改めるとき、ヨブの罪は赦されます。

そして、ヨブは義人で、今、天国にいます。



で、悔い改めって、罪を悔いたり、神様の赦しを乞うことだけじゃなくて、その罪から離れ、方向転換すること、つまり、神様以外の何かでやってきたことを放棄し、手放し、神様に向きを変えることです。

この40章1~5節には悔い改めは一切記されていません。

だから、そんなヨブに神様は更に厳しい質問を投げかけます。



ぼくたちも注意しないと、ヨブみたいなこと、しちゃうと思います。

神様の前に罪の告白をし、赦しを求め、十字架の赦しを受け取ります。

でも、同じ罪を犯してしまう。。。

そこには、イエス様の十字架で赦されているっていうことで、大丈夫っていう思いがどこかにあるんじゃないのかなって思うんです。

ごめんなさい、厳しいこと言って。。。



私たちがすることって、そうじゃなくて、聖霊の助けを求め、その罪の世界から向きを変えることなんです。

自分も含めてだから、厳しいこと言ってるんですが、どっかで甘えっていうか、十字架の赦しを簡単に捉えているんじゃないのかなぁって感じます。

そして、イエス様は私たちの友だっていうみことばが一人歩きし、親友だもんって、畏れが無くなっているんじゃないのかなって感じます。



ぼくらはもう一度、神様を畏れるということを考える必要があると思います。

もちろん、あれやったら裁かれる、これやったら裁かれるってオドオドする必要はないし、逆にイエス様ご自身を味わい、楽しむべきです。

でもね、親友であると同時に、全能者であり、ぼくらは被造物なんだっていうこと、そして神様の権威がわかるとき、私たちの立つべきスタンスも自ずと変わってくると思います。



神様が求めておられること、それは罪から解放され、罪のしもべとして縛られていたその縛りから解放され、自由とされた私たちが、今度は自発的にイエス様のしもべとさせていただくことです。

イエス様に従うしもべとしてのライフスタイル、イエス様の弟子としてのライフスタイルです。

これはイエス様の前に恐れおののくことではありません。

しもべとしてのライフスタイル、求めていきましょうね。


祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。


でわでわ~

こんにちわ~


今日もみことばの分かち合いをしますね。

今日もヨブ記です。


38章1節から、ついに神様が現れ、ヨブに語っています。

でも、それはヨブの質問に答えるという形じゃなくて、逆に神様がヨブに質問、というか、詰問と言った方がいいかもしれませんね、それだけご自身の権威を持って、ヨブに問いただしています。


そして、神様のヨブへの質問が4節から始まります。

今日はその4節から15節を味わいました。


神様はヨブに「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」っておっしゃっています。

そうなんですよね、これにはヨブは答えられませんよね。

だって、神様が大地を据えた、つまり神様がこの地を創造されたとき、ヨブはまだ生まれていないし、この世にいませんでしたからね。

神様はね、ヨブに、神様の創造の御業を理解できないような者が神様と論争なんかできないっていうことをここでおっしゃっています。



で、7節では「そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い、神の子らは皆、喜びの声をあげた」ってあります。

この地が完成したとき、天の星々は喜び賛美し、神の子、つまり天使たちは歓声を上げたんです。

ヨブはそのことを知りません。




ヨブ記38:8~11

海は二つの扉を押し開いてほとばしり、母の対から溢れ出た。

わたしは密雲をその着物とし、の有無をその産着としてまとわせた。

しかし、わたしはそれに限界を定め、二つの扉にかんぬきを付け、「ここまでは来てもよいが超えてはいならない。高ぶる波をここでとどめよ」と命じた。
 


これ、海が出来、陸地と海とをわけられた時の描写で、海を赤ちゃんに例えておられます。

かつて、地の表面は水で覆われていましたが、神様は陸と海とに境界を設けられ、乾いた地を出現されました。

そのときの描写で、海の上を密雲で覆われました。

その密雲がまるで赤ちゃんが着る産着のようだって、神様はおっしゃられました。

きっと「あの時そうだったなぁ」っていう、神様の回想シーンですね。


でも、これもヨブは知りません。


結局、神様のなさったことは、ヨブは何も知らないんです。




で、ここで神様はヨブに質問しています。



ヨブ記38:12~15

お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか、

大地の縁をつかんで、神に逆らう者どもを地上から追い落とせと。

大地は粘土に型を押していくように姿を変え、すべては装われて現れる。

しかし、悪者どもにはその光も拒まれ、振り上げた腕は折られる。
 


夜の闇は悪者が動き回る時間、そうですよね、今は必ずしもそうじゃないかもしれないけど、一昔前までは泥棒というと夜、寝静まったころにっていうイメージ、ありますよね。

そのように、悪者の活動する時間帯をここで闇だって言ってるんです。

悪者は真っ暗な闇の時間である夜に活動するので、朝、つまり明るい光の時間帯は活動出来ません。

だから、神様はヨブに「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に指示したことあるか?」って質問されたんです。


神様は闇も光も、朝も夜もご自身が管理されています。だから、朝に命令し、曙に役割を示すようなことは朝飯前、日常のことです。

それをヨブに出来るかって問いただしているんです。



神様、そんな意地悪な~、ヨブができっこないようなことばっかり聞いて~~~って思う人もいるかもしれませんね。

でもね、神様は決して意地悪でヨブに質問してるんじゃないんです。

ヨブに自分がどれだけの者かということをわからせようと、そうされているんです。


これまでのヨブの発言をみると、まるで神様と対等な関係で、神様がどうして自分をこんな目に遭わせるのか答えて欲しいって、まるで裁判にかけているように言ってましたよね。


でもね、神様と対等なんて、そんなことあり得ないですよね。

神様はヨブに現実を突きつけたんです。



ぼく自身どうなんだろうって思わされます。

無意識のうちに、神様と対等なんて思ってないのかなってね。。。


神様の前では、ぼくなど何者でもないし、何にも出来ません。

小さな小さな存在。


思うんですが、そこから始めて、前に書いた「畏れ敬うライフスタイル」が始まるんですよね。

そして、神様に全幅の信頼を置いて、神様の優しい御手の中に留まるとき、神様がすべてを治め、してくださる。

ぼくはじーっと見てるだけでOK



もちろん、動揺することや恐れ動いちゃうこともあります。

でもね、そうやって一歩一歩変えられ、まさに畏れ敬うライフスタイルへと変えてくださる。

神様は、試練のただ中で食卓を整えてくださるお方です。


そんなことを今日一日思い巡らしました。

あぁ、主よ、感謝します 


祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。


でわでわ~




 

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キリストの愛を込めて。。。






こんにちわ~ 

今日はみことばの分かち合いしますね。

 

今、旧約聖書のヨブ記を味わっています。

ヨブ記、体中が痒く、すべてを失い孤独と苦しみに呻き、 神様に「何故ですか?」と尋ねているヨブ。

そのヨブに対して3人の友人が、まるで傷口に塩を塗り込むように、ヨブの罪の刈り取りだって、苦難は罪の結果だっていう信仰をもとに、それをヨブに当てはめて、ヨブに悔い改めるように迫りました。

で、3人の友人たちがヨブに言い尽くした後、第四の男というか、四人目の人が現れ、ヨブを責め立てます。

 

この人、エリフっていう人なんだけど、32章~37章って、6章も費やしてエリフは機関銃のようにヨブに語っています。

もちろん、章は私たちが聖書を読みやすくするように付けてあるだけで、実際は章は無いんですけどね

 

で、このエリフという人なんですが、3人の友人と同様、ヨブに対して間違った理解はしています。

でもね、3人の友人と違い、鋭いことも言っているんです。
 


で、今日味わったのは37章の14節から、エリフの機関銃メッセージのエンディングです
 


ヨブ記37:33~34

全能者を見いだすことはわたしたちにはできない。

神は優れた力をもって治めておられる。

憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。

それゆえ、人は神を畏れ敬う。

人の知恵はすべて顧みるに値しない。
 


 
 神様は私たちの理解を超えたお方です。

神様は自然界を支配され、時に嵐を起こされたり、地震を起こされたりします。


エリフは同じ37章14節でこう言っています。

 


ヨブよ、耳を傾け、神の驚くべき御業について、よく考えよ。

あなたは知っているか。どのように神が指図して、密雲の中から稲妻を輝かせるかを。

あなたは知っているか、完全な知識を持つ方が、垂れ込める雨雲によって、驚くべき御業を果たされることを。

南風が吹いて大地が黙すときには、あなたの衣すら厚くなるというのに、鋳て造った鏡のような堅い大空を、あなたは、神と共に固めることができるとでもいうのか。

ヨブ記37:14~18
 

 

ヨブもそうなんですが、ぼくたちは自然界の現象なんて説明出来ないし、本当に無力だと思います。

でもね、そのすべてを治めておられるのは神様なんですよね。

その神様を前して、ぼくたちは何にも言えないし、議論することも出来ないと思うんです。


だってね、神様は完全な義なるお方だし、神様は決して間違ったことをなさるお方でも、意地悪なお方でもありません。

もしそうなら、もうそれは神様じゃないですもんね。

 

その神様を前にして、私たちが出来ること、それが24節だと思うんです。

「それゆえ、人は神を畏れ敬う。人の知恵はすべて顧みるに値しない。」

 

自分自身、どうなんだろうなってすごく思わされます。

確かに、「神様、どうしてですか~」ってヨブみたいに言いたくなること、わからないこと、いっぱいあります。


今の状態から脱出したいという思いも強くあります。

でも、思うんです、それを神様に訴えても、そこには答えはないんだっていうこと。


それは決して神様はいないとか、そういうことじゃないですよ。

そうじゃなくて、神様はご自身の御心のままにそうなさっているんです。

だから、人間の指図は受けないし、人間の意見に動揺したり、ご計画を変更したりするようなお方ではないんです。

逆に言えば、神様の御心って、それだけ完璧なんですよね。

 

第二コリント12章9節にこうあります。

「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」

 

あぁ、神様の前にへりくだり、畏れ敬い、今やるべきこと、今、与えられていることを忠実に行っていくことなんだなぁって思わされます。

ぼくの呻きも、祈りも全部聞き届けられています。

だって、天において、イエス様がぼくのために執り成し祈り続けてくださっていますし、イエス様を通して天のお父様に全部伝わっていますからね。

 

主に信頼し、畏れ敬うこと、これが信仰生活のすべてなんだなぁって思います。

畏れ敬うライフスタイル、これを確立していきたいですね。


 
祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。


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