キリストの優しい風

~風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者も皆そのとおりである(ヨハネ3:8)~

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。





カテゴリ:恵みの分かち合い > 聖書フォーラム

こんにちわ~

今日、二つ目の記事です。別に気合い入ってるわけじゃないんですけどね顔笑

前回の記事は、「神様の祝福の仕方」っていう記事です。



さてさて、今日は聖書の学びに行きました電車

定期的にやってる集会で、今日はローマ人への手紙27~31節から学びましたpencil*



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人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

ロマ3:28

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これ、有名な「信仰義認」です。信仰によって義とされるということ。

ぼくたちが救われるのは、律法によるんじゃないです。なんか行い、つまりたとえば人に喜ばれることをしたらとか、それなりの結果を出したらとか、そういうんでもないです。

ぼくらが救われるのは、信仰により、恵みによるんです。それも神様の側の一方的なです。


よく洗礼を受けることによって救われるっていう人がいるけど、これ大きな大きな間違い。

人は洗礼によって救われるんじゃないです。だって、そうだったら洗礼っていう行いによっちゃいますもんね。


また、罪の告白によるんでもないです。それも行いだし、大体罪の告白って、告白しても告白しても次から次へと出てきます。それくらい罪は根深いです。

きっと一生かかっても終わらないでしょうね。

でも、イエス様の十字架でそれらの罪はぜ~~~んぶ赦され、洗いきよめられ、取り除かれました。

だから、そこに信頼することなんですよね。


ぼくらは信仰により、恵みによって救われました。



今日、学びながら思ったのは、問題はその後、信じて救われた後です。

救われたら、今度は何かの行いによって信仰生活を確立させようとしたり、○○しちゃダメだとか、聖書以外に自家製の律法を作り出してしまったり、そういう傾向があるなぁって思わされたんです。

救いは信仰と恵み、信じた後も同じ、信仰と恵みです。

そこに立たないととっても危険。でも落とし穴。



そして私はこれだけ聖書を読んだとか、毎日1時間以上祈ってるとか、デボーションをばっちり毎日やってるとか、それがいつの間にやらプライド、誇りになっちゃうんです。

ある人が今日言っていて、面白いなぁって思ったんですが、そういうのはぜ~~んぶ埃だって。

そう、埃なんですよね。そして埃は掃除して捨てなきゃダメなんです。

聖霊の掃除機はダ○ソンの掃除機より運万倍きれ~~いに掃除してくださいます。

聖霊の掃除機で綺麗にして頂くことですよね。


ぼくらは本来愛される価値もないような者です。でもね、そんなぼくらの罪が赦され、綺麗に掃除され、取り除かれ、救われたんです。

これ、神様の一方的な恵みによってなんです。


いつもそのことを忘れちゃ絶対にいけないなぁって思わされました。



そして、変えてくださるのはぼくらの努力とか何か行いじゃなくて、神様の恵みの御手によってです。

変えよう!じゃなくて、変えていただくんですよね。

だからこそ、神様の恵みに依り頼むんです。


今週も主の恵みに満ちた愛の御手に信頼し、依り頼み、一歩一歩歩んでいきましょう


今週もよろしくです


でわでわ~ほtesei

こんにちわ~

今日も無事一日が終わりました 

今日はほんと暑かったですね~ 7月らしいんですけど、この暑さ、久しぶりだなぁって思いました。

このまま梅雨、明けてくれるとうれしいです。


さてさて、そんな中というか、今日はお出かけしました。聖書の学び会です。

今日はローマ1章16~17節からの学びでした。



わたしは福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり、信仰に進ませるからです。
「義人は信仰によって生きる」と書いてああるとおりです。




今回、「信仰」ということについて教えられました。


それ(神の義)は、始めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。(新共同訳)(17a)

これなんですよね。神の義、つまり福音は初めから終わりまで一貫して信仰を通して実現されるんです。

ここを外すととんでもないことになっちゃいます。



ここで「救い」ということですが、救いって一言で言いますが、でもね、ぼくたちが救われるというのは、イエス様を信じて救われる、そこで終わりじゃないんです。

正確にいうと三段階あるんです。


①、義認(過去形の救い)

これが普通ぼくらが使う「救われました」っていうことです。

この救いなんですが、どうやったら救われるんでしょう?立派な人になること?何か慈善活動とか、教会の奉仕をするとか、献金をいっぱいするとか、そういうこと????

そうじゃないです。聖書は何と言っていますか?「初めから終わりまで信仰を通して」ですよね。


じゃぁ、どうしたら救われるんでしょう?

それは、「福音の三要素」と言われるものを信じることです。

第一コリント15章2~4節にこのように書かれています。

また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのではないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、


  • イエス様が私たちの罪のために死なれたこと
  • 墓に葬られたこと
  • 三日目によみがえられたこと

これが福音です。この3つはセットで、この3つを自分のこととして信じ受け入れ、そこに信頼を置くなら、信じたその瞬間に救われます。

そこに必要なのは信仰だけ、そう「信じます」っていう信仰だけです。
それ以外何一つ必要ないです。

時々、イエス様を信じて、洗礼を受けたら救われるっていう人がいますが、それは大きな間違いです。
だって、救いは信仰のみですよ。聖書は信仰だけだよって言ってますよね。
ところが、そこに「洗礼」、バプテスマが入ってくると、その瞬間、信仰+αになっちゃいます。

間違えないでくださいね、洗礼は救いの条件じゃないし、福音の三要素以外のものを救いの条件に入れちゃ絶対に駄目です。

私たちがこの「福音の三要素」を信じた瞬間に義と認められ(義認)、つまり救いを受けるんです。だからこれは過去形の救いです。



②、 聖化(現在進行形の救い)

この福音の三要素を信じた瞬間に、私たちの罪は赦され、神様は私たちを義と認めてくださいます。

でも、それでおしまいじゃないんです。

このあと、聖化の歩みが始まるんです。


聖化ってなんでしょう? それは私たちの救いが完成するためのプロセスです。

福音の三要素を信じて義認の恵みを受けました。でもそれは立派な人間になったということではありません。

だって、そのあとも失敗すること、ありますもんね。

私たちのうちには古い、救われる前の性質が残っていて、それが悪さをするんです。

だから失敗をしてしまったり、時に誘惑に負けてしまったりもします。


でもね、神様は私たちをご自身の似姿に変えるため、時に試練とかを通して、また人を通してとか、いろいろな形で私たちを練り、造りかえをしてくださるんです。

それはまるで陶器師が陶器を作るために土を練って火にかけるようにです。

私たちを練り直し、火にかけて、主の似姿に変えてくださっているんです。


言わば、ぼくたちは「工事中」の状態、救われた後の生涯を通しての神様の作業です。


でもね、この聖化の過程なんですが、悲しいかな、奉仕とか何か、信仰以外のものが入ってきちゃうんです。

「さぁ、救われたんだから、イエス様のために奉仕しましょうね。献金しましょうね。イエス様に喜ばれる歩みをしましょうね」って、救われたての人に、今までは優しくゲスト扱いだったのに、手のひらを返すようにそういうふうに言ってしまうケース、案外多いと思います。


これ、違いますよ。これだと聖化のプロセスも努力によって、たとえば奉仕だとか、頑張ってイエス様に喜ばれる歩みをするとか、信仰に+αを付けることになります。

あくまで、聖化のプロセスも「信仰のみ」です。

大体、頑張ってイエス様に喜ばれる歩みをしましょうとか言われても、頑張って出来るもんじゃないです。

それを聖書は「肉」と言っています。

努力してりっぱなクリスチャンになろうとしても、無理だし、そこにあるのは罪悪感と不安感で、「こんな信仰じゃ駄目だ」ってなっちゃうんです。



③、栄化(未来形の救い)

この聖化が完成すること、これが「栄化」です。

栄化って「栄光化」の略です。つまり、栄光が与えられ、イエス様の似姿となることです。

私たちが死んだ時、栄光の姿に変えられます。そしてイエス様の似姿となり、もう死も罪も老いも病もなくなります。


だからね、聖化ってそのためのプロセスなんです。

でもそれも信仰によるんです。もちろん、栄化もです。


ところが、ぼくらは不安になって、救われて何年も経つのにまだ変わっていないとか、これじゃ駄目だとか、思って、頑張っちゃうんです。

そして、自分の内面を見ては「はぁ。。。」って落ち込んじゃいます。


教会では元気な不利をして、一歩教会から外に出ると、デボーション出来てないとか、ぜんぜん祈ってないとか、そうなっちゃいます。

教会では信仰的な言葉を使い、立派に装っているけど、実際は劣等感を持ってしまう。。。


どうしてそうなっちゃうんでしょう。それは信仰に何かを付け加え、努力によって立派なクリスチャンになろうとするからです。

そしてそのギャップに気づき、落ち込んじゃったり、自分はまだまだだとか、ダメクリだ~とか、そうなっちゃうんです。



でもね、聖書は「初めから最後まで、信仰を通して実現される」って言ってますよね。

信仰以外の何かを持ち出したりすること、それは違うんです。

もちろん、奉仕は大切、献金も大切、でもそれらは聖化のための条件とか、必須要因とかじゃありません。

聖化されていくプロセスの中で、自然に出てくるもので、内側から「したい」という思いが起こされ、そして奉仕をするんです。

それを立派なクリスチャンになるためってやっちゃうと、混乱をきたらす結果となります。



そして、聖化のプロセスは目に見えるものじゃありません。

自然に変えられていくんです。

ぼくたちの内側には神様のいのちの種が植えられています。そして、その種が神様の時に、神様のタイミングで芽を出させ、成長させてくださるんです。

ガーデニングが好きな方、多いと思いますが、お花の種を買ってきて、植木鉢にその種を蒔きます。

でも、どうですか、たとえば翌日、種を蒔いた植木鉢を見て、どれだけ芽が出てるんだろうって掘り起こして種を見るようなこと、しないですよね。

そんなことしたら生えるものも生えないです。



おんなじことをぼくらは聖化のプロセスの中でやっちゃ運です。
 
まだ変えられていない、これじゃ駄目だってね。。。


でも、いつ芽が出るかなんて、誰にもわかりません。いつの間にか、ある日ある時植木鉢を見たら生えてたみたいな、そんなことです。


頑張る必要はゼロ、必要なのは信仰、何の信仰かというと、神様に信頼する信仰です。

ぼくらが変えるんじゃないし、教会の牧師が変えるのでもありません。信仰の先輩でもないし、配偶者でもありません。

その人たちは、言わば、水を与えたり、肥料を与えたりする人たちで、その人たちはそれ以上のことは出来ません。

そう、成長させるのは神様なんです。

その神様のタイミングに身を任せるのです。そして肩の力を抜いて、主に信頼し、依り頼むのです。

そのとき、神様の方法で私たちを変えてくださるんです。ゆっくりゆっくり、神様は私たちを練りきよめてくださいます。

その神様の巧みな業に信頼し、お任せするのです。



今日、お互いに信仰に何か付け加えているものがあるなら、それを手放し、主に信頼し、依り頼む歩み、しませんか。

肩の力を抜いて、自然体なクリスチャンライフ、これは私たちの聖化を神様に委ねているクリスチャンの姿です。

そうやって、私たちは自由にされていくんですよね。



他にも教えられたことはあるんですが、とりあえずこの辺で。。。。。



でわでわ~

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