キリストの優しい風

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。

カテゴリ:バイブルスタディー > キリストの弟子道

こんにちわ~

これまで数回に渡って、ルカによる福音書から、イエス様の弟子になるということはどういうことなのかっていうことをご一緒に学んで来ました。

今日はその最終回です。ご一緒にみことばを味わいましょう


今日の箇所はルカ14章34~35節です。


ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。

土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。

聞く耳のある人は聞きなさい。




これまで学んで来た、イエス様の弟子になるための学びの結論です。

結論として、塩についてのお話です。


これまでもお話してきましたが、聖書は書かれた時代を意識して読まないと、間違った理解、間違った解釈をしてしまいます。


私たちの生活でもそれはわかると思います。

以前、テレビで小学生に黒電話を見せ、「これ、どうやって使うのか、わかる?」って聞いていました。

子供たち、全くわからないようで、ダイヤルの部分の穴のあいた数字を一生懸命プッシュしていました。


小学生にとっては、黒電話は未知の世界のもので、まさかダイヤルを回すなんて想像も出来ないんです。

だから、一生懸命に数字の部分を押しているんですね。


それと同じなんです。聖書が書かれた、そのターゲットはユダヤ人であり、その時代の中東の人たちです。

その人たちに対してイエス様にしても、パウロやペテロやヨハネにしても語っているんです。


今回の塩のお話にしても、その背後にあるものは、常識として彼らはわかっていて、だから、イエス様もいちいち解説する必要もなく、塩と言っただけで、「あぁ、あのことね」って聴いている側もなるんです。


聖書は字義的に読む必要があります。

聖書を読むとき、書かれていることを書かれたとおりに読み、理解する。

比喩的に書かれているなら、そのとおりに理解し、現実のことなら、そのまま理解する。

そして、聖書を今の時代に置き換えなくて、書かれた時代を意識して読むこと、これが字義的に読むということです。



だから、今日もそのことを意識しながら、みことばを味わいましょうね。



さてさて、今日の話は塩についてです。

イエス様、言われました、「その塩が塩けをなくしたら、何によって味をつけるのでしょうか」って。

これ、どういう意味なんでしょう?


塩が塩けをなくすって言われても、よくわかんないですよね。

それはまさに、今の時代に置き換えて読んでいるからなんです。


今の塩って精製塩だから、塩の味が無くなることはないですよね。

でも当時のお塩はなんにも手を加えず、そのまんまだったんです。だからね、いろんな不純物も入っていたんです。

だから、時間が経つと段々と塩分が溶け出し、不純物だけが残ることがあったんです。

わかりますよね、そうなったらもう塩の味は無くなっていますよね。


不純物だけが残るんですから、もうどうしようもないです。土地の肥料にもならないし、再生しようがないです。

だから外に投げ捨てられるしかありません。


これ、当時の人々の生活の中でごく普通のことですので、聞いている人たちはそのことを頭にうかべながら聞いていました。



このお塩なんですが、これは弟子のことを塩にたとえてお話されていたんです。

イエス様は当時の岩塩の特徴を利用して、弟子としてのあるべき姿について教えられたのです。

つまり、弟子が持つ特徴、特質は、塩の性質と同じなんだっていうことなんです。



旧約聖書の第二歴代誌13章5節に「塩の契約」という言葉があります。

イスラエルの神、【主】が、イスラエルの王国をとこしえにダビデに与えられたこと、すなわち、塩の契約をもって、彼とその子らとに与えられたことは、あなたがたが知らないはずはあるまい。

この「塩の契約」なんですが、これは永遠に変わらない契約を指します。

同盟契約を結んだ者同士は契約の食事をしました。その際、塩味の効いた料理が用意されたんです。

中東の暑い気候において、塩は生きるための必需品でした。

そして、塩は腐敗防止効果を持っています。また、塩は調味料で、食事の味を劇的に変化させる力を持っています。



犠牲を計算し、全面的に献身する弟子はまさに塩です。



イエス様の弟子は社会を腐敗から守り、人生を味わい深いものに変えます。

これこそ、塩そのものですよね。


でも、弟子がその役割を無視し、好き勝手に生きていたらどうでしょう。

人々から物笑いにされるだけです。



イエス様はこのキリストの弟子道の結論として、キリストの弟子は塩そのものなんだよって教えられたんです。


キリストの弟子は犠牲を伴うって前回学びましたが、でも、考えてみればイエス様信じてクリスチャンになったら犠牲があるのは当たり前です。

だってサタンの支配するこの世から贖い出されたんですからね。

聖書を読めば読むほど、この世の価値観とのズレが出てきます。そして気づくんです、この世の常識はクリスチャンにとっては非常識だって。

そして時に迫害にあいます。もちろんどこかの国みたいにクリスチャンが逮捕されて拷問を受けるとか、死刑で殺されるとかはないです。

でもこの世の常識とクリスチャンの常識がぶつかることは多々あるのです。



私たちはこの世から贖いされた存在です。そしてその私たちクリスチャンをイエス様ご自身が弟子として歩むよう、今、招いておられます。

イエス様の弟子としてのライフスタイルを持つとき、犠牲は伴います。でもそれ以上に喜びがあるんです。

そして、キリストの弟子は塩味の効いた存在で、人々はその私たちを通してキリストと出会うのです。


さあ、ご一緒にキリストの弟子としてのライフスタイルを持ちませんか?

祝福を祈ります。イエス様の愛を込めて。。。。


でわでわ~


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こんにちわ~

このところ、ルカの福音書から、イエス様の弟子になるということをご一緒に学んでいます。




今日はその続きで、ルカ14章28~33節です。




塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。

基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、「この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった」と言うでしょう。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。

もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。

そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子となることはできません。



この箇所もとっても難しいですね。

どうして難しいのかというと、今の時代に生きている私たちの視点で見るからなんです。


イエス様がお話されたのは約2000年前の出来事ですよね。

この時代、何があったのか、また、そこにいた人たちにとっての常識って、ぼくら、知らないですよね。

そして、その話を今の時代に置き換えて、今のぼくたちの感覚で読もうとしちゃうから、意味がわかんないし、ヘタすると間違って理解しちゃうんです。



この話、当時の人たちは、「あぁ、あの話ね」って、聞いただけでわかって、その出来事を頭に浮かべながら聞いていました。

だからね、ぼくたちが聖書を読むとき、今の感覚じゃなくて、当時の状況を意識して読むこと、これが大事なんです。



さてさて、この話なんですが、まず28~30節です。

塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか。
基礎を築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑って、「この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった」と言うでしょう。


この話は、十分な資金がないままで塔を築こうとした人の物語です。




まあ、今も時々ニュースとかで聞きますが、当時、手抜き工事の建物や未完成の建物は、けっこう知られていたんです。

たとえば、紀元27年に手抜き工事をした円形劇場が崩れ、約5万人の犠牲者が出ました。

だから、この話、そこにいた人たちにとってはものすごく身近な話で、みんな「そう、そう」ってうなずきながら聞いていたことと思います。


つまり、この話、何を言いたいのかというと、ちゃんと費用を計算しないと施主、つまり塔を建てる人ですね、その人は恥をかくということなんです。





また、31~33節にはこうあります。

また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようとするときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことがdけいるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。
もし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求めるでしょう。
そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの弟子になることはできません。


この話はモデルがいました。それはヘロデ・アンティパスという人物です。

このヘロデ・アンティパス、彼には妻がいました。その妻はアラビアのアレタ王の娘でした。

その奥さんと幸せな夫婦生活と言いたいところなんですが、この男、なんと不倫したんです。そ

その相手はヘロデヤという女なんですが、この女と結婚したくて、なんと妻であるアレタ王の娘と離婚したんです。

最低ですよね~~~

で、怒ったのはアレタ王様、当たり前ですよね。だってヘロデの不倫が原因で自分の娘が離婚させられたというんですから。

で、アレタ王様、カンカンに怒って、アラビア戦争が勃発したんです。そしてアラビアの勝利でこの戦争は終わりました。

これがヘロデ・アンティパスが没落するきっかけとなったです。



イエス様のお話を聞いてた人たちの記憶には、このヘロデ・アンティパスの話がまだ鮮明に残っていて、このイエス様のお話がすごく説得力があり、身近で、よくわかったんです。



戦争するとき、ちゃんと兵力を比較するのは当たり前だし、死活問題ですよね。

この話だと、二万人を引き連れてやって来た敵に対して、たった一万人で迎え撃つことはありえないことですよね。



おんなじように、私たちもイエス様の弟子になるとき、その犠牲をしっかりと計算する必要があります。


この二つのたとえは、イエス様の弟子としての犠牲を数えることの重要性を教えています。

つまり、中途半端な態度では、イエス様の弟子にはなれないっていうことだということを、ここで教えておられるんです。



ここで、わぁ、大変だぁ~~、イエス様信じるだけじゃ駄目なんだぁ~って思わないでくださいね。

この話は、イエス様を信じ救われたあとの話なんです。



救われた私たちは、今度は、イエス様の弟子になるよう、主は招いておられます。

でも、そのためにはどうしても犠牲が伴うんです。だから、その犠牲を受け入れる必要があるんです。


でも、私たちの努力とか、もともと持っている力ではその犠牲を払うことはできません。

それは皆さんも実感されていることと思います。ぼくも無理です。


でもね、ぼくたちにはできないことも、主は出来るんです。

ぼくたちの内には聖霊が住んでおられます。だから、御霊にして頂くんです。



イエス様の弟子になる、イエス様に従うとき、時に迫害に遭います。

未信者の家族や友人から理解されず、悲しい思いをすることもあります。

でも、その上で、私たちはイエス様に従う、イエス様の弟子としてのライフスタイルを持つのです。


どうして? それが一番の祝福であり、恵みだからです。

そして、将来、私たちがこの地上生涯を終え、天に挙げられ、イエス様と出会うとき、イエス様から「よくやった、忠実なしもべよ」って言われるんです。


イエス様から直接そんなこと言われたら、嬉しくてしょうがないですよね。


でも、頑張る必要はないです。私たちはどんなことを言われても、何があっても、一心にイエス様だけを見つめ、イエス様に信頼し、身をゆだね、身を任せ、前進していくんです。


これがキリストの弟子のライフスタイルなんです。



たしかに犠牲はありますが、それを上回る喜びがある、これがキリストの弟子なんです。

どうですか?ご一緒にキリストの弟子として、主に信頼し、歩んでいきませんか?

何よりも主が一番お喜びになります。


祝福を祈ります

でわでわ~

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こんにちわ~にこきらきら

今日は前回の続きです。



前回、イエス様の弟子になるとはどういうことかということを学びました。

イエス様の弟子となるには、優先順位で、イエス様を第一とすること、たとえ親や兄弟や身内であっても、イエス様以上となってはいけないということです。


再度言いますが、親をないがしろにしなさいとか、親を憎みなさいとか、ましてや親を愛しちゃダメだっていうことじゃないです。

私たちクリスチャンは特に親を大切にしなければいけません。

でも、親を大切にするあまり、イエス様よりも親を上に持っていってはいけないんです。



これ、親だけじゃないですよね。

趣味だとか、仕事だとか、勉強だとか、あと夫婦間だとか、自分の子どもdとか、全般的に言えるんです。


考えてみてください、親も仕事も大切なパートナーも、ぜ~~~~んぶ神様からのプレゼントです。

それがわかると、優先順位を間違えたりすることはなくなると思います。



さて、今回はその続き、「十字架を負う」ということについて、ご一緒に学びたいと思います。




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ルカ14:25~27

さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることはできません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。


☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○




自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。(27)

これも難しいことばですよね。


この「自分の十字架を負う」ってどういう意味なんでしょう?

この意味を考えるにあたって、ローマ時代の十字架刑についてちょっと考えてみましょう。



十字架での死刑囚は、なんと十字架の横木を自分で背負って、死刑場まで歩かされたんです。

自分の意志じゃ決してありません。ローマの権威によって強制的にそうさせられたんです。

これがローマ時代の十字架刑です。



じゃぁ、ここでイエス様がおっしゃっている「自分の十字架を負う」って、自分じゃ負いたくないけど、自分の犯した結果、十字架を負わなきゃいけない。。。。っていうことなんでしょうか?

イエス様に従うための条件として、イエス様に負わされるんでしょうか???


そうじゃないです。キリストの弟子はね、十字架を負わされるんじゃなくて、自発的に十字架を負うんです。

イエス様の弟子となる人は、自発的に十字架を負うんです。



じゃぁ、「自分の十字架を負う」って何なんでしょう?

それはね、イエス様が歩まれたように歩むっていうことなんです。


イエス様は自己否定、辱め、迫害、誘惑などをあえて受け入れ、甘受しました。

キリストの弟子になる人も同じです。それらをあえて受け入れるんです。


これが「自分の十字架を負う」っていうことです。




これだけ聞くと「よ~~~し、私の十字架、受け入れるぞ~~」ってなっちゃう人もいます。

でもね、そうやって頑張って自分の十字架を負おうとしても、もたないで疲れちゃいます。

結果はわかりきっています。



自分で負おうとしても駄目です。だって、自分の中にはそんな力、これっぽっちもないし、私たちの内側は自己中心だし、何よりも自分が可愛く、自分が大切、自分、自分、これが私たちの内面です。

私たちがそれを認め、自分で負おうとせず、聖霊にお任せするんです。


そして、私たちはまず、イエス様がどんなに素晴らしいお方か、私たちを愛してくださっているのか、どんなに魅力に満ちたお方か、それを聖書のみことばを通して味わうことです。

イエス様が私たちにしてくださったことがわからない間は、自分の十字架を負うことはできません。


まず、イエス様の愛の深さ、広さ、長さ、高さ、その計り知れない恵みを味わい知ることです。



ピリピ3章7~8節にこうあります。

・・・それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
わたしはキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。


「私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています」っていうことば、新改訳聖書は上品に言っていますが、なんと口語訳聖書は「ふん土のように思っている」って書いてあります。

イエス様を知っていることの素晴らしさにくらべたら、世にあるすべてのものはふん土のようなんだってパウロは告白してるんです。



この箇所にはパウロの頑張りは感じられません。握りこぶしを作り、頑張って。。。そんなことはいっさい感じられないです。

逆にへりくだって、あまりにもイエス様が素晴らしいから、今まで魅力的だと思っていたもの、大事にしてた価値観、それらはぜ~~~んぶ色あせ、虚しく感じ、ふん土のようなんだって告白してるんです。



ぼくたちは、イエス様の素晴らしさ知れば知るほど、イエス様を第一とし、十字架を負うようになります。

そこには頑張りはないです。


私たちは日々、みことばを味わい、神様がどんなに素晴らしいか、それを発見することです。

そして神様のご計画の全貌を知り、その愛を知ること。

これがクリスチャンの成長に繋がり、キリストの弟子として生きる力となるんです。



お互い、イエス様の素晴らしさを味わう日々でありましょうね。

でわでわ~


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こんにちわ~にこきらきら

今回から数回に分けて、ルカ14章から、ぼくたちがイエス様の弟子となるにはどうすればいいのか、つまり「弟子道」について、一緒に学ぼうと思います。



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ルカ14:25~27

さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○



イエス様はこの時、ペレアからエルサレム、つまりベタニアに向かっています。その途上で群衆に「ご自身の弟子になるには」ということを語られました。



☆ミ☆彡☆ミ☆彡★✩*※*★☆☆ミ☆彡☆ミ☆彡

「さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。」(25)

この時、大ぜいの群衆がイエス様の後に着いて来ました。いわばイエス様のファンであり、イエス様こそ我がイスラエルを解放してくださる約束のお方だって信じて、従っていたんです。

その数、すごいでしょうね、だって、「大ぜいの群衆」ですからね。普通、数人に対して群衆とは言わないし、ここでは「大ぜいの」って、群衆だけでもすごい数だってわかるのに、そういう形容詞まで付けるんですからね。



でもね、イエス様のお気持ちは彼らとは違ったんです。そしてイエス様のファンがどんなに多くても、イエス様はお喜びにはならなかったし、決して彼らを信用していませんでした。

だって、彼らの心はお見通しですもん。

そこで、イエス様は、興味本位で、イエス様のおっかけをしていた群衆に、ほんとうに着いて来る、つまりイエス様の弟子となるにはどうすればよいのか、イエス様の弟子とはどういうことなのか、そうイエス様の弟子道について語られたんです。



☆ミ☆彡☆ミ☆彡★✩*※*★☆☆ミ☆彡☆ミ☆彡

わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。(26)

この箇所、難しいですよね。この箇所を実践しようとして苦しみ、つまづいた人もいます。

そしてこの箇所、思わず頑張りたくなる箇所だと思います。


しかも、お父さんやお母さん、自分の身内を憎めって。。。。 その上、自分のいのちまでも憎めって。。。

家族を愛する者はクリスチャンとして失格か。。。。 家族を大切にしちゃダメだって。。。。

って、この箇所を文字通りに読むとそうなりますよね。


こういう箇所をカルト教会は利用します。怖いですよね。。。 


でも、実際、どういう意味なんでしょう? 家族を憎まなきゃ駄目なんでしょうか?!



実はね、この箇所、当時の文化や旧約聖書の背景がわからないと、とんでもないことになっちゃうんです。

この26節、「愛する」っていうことばと「憎む」っていうことばがありますよね。

この二つの意味が誤解の原因なんです。


聖書で、この意味は私たちが捉える感情論とは別の意味を持っています。

このふたつの意味、こういう意味なんです。



  • 愛する⇒選ぶこと
  • 憎む⇒選ばないこと


ぼくたちが理解している意味とは全然違いますよね。

旧約聖書の例では、神様がエサウではなく、ヤコブを選んだことが上げられます。

ローマ9章の中で「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」ってありますが、これ、神様がエサウを憎んだってどういう意味かわかりますか?

聖書的な「愛する」「憎む」がわかると、この意味すんなりわかりますよね。

そう、神様は決してエサウを憎んだのではありません。そうではなく、神様に従ったヤコブを選んだんです。

選びの問題です。


このように、イエス様は感情論で、「あの人を憎んでる~怒る怒る」的な意味で26節を言われたんじゃなくて、何を優先するかという意味で、「愛する」、「憎む」と言われたんです。

つまり、イエス様は優先順位のことを言われたんです。


家族は大切です。キリストの律法であっても、父、母を敬うよう命じています。

私たちはお父さんとお母さんを大切にし、敬わなければなりません。でもね、問題は両親や身内とイエス様、どっちが大事?っていうことなんです。

これが家族の方がイエス様より大事だっていうことになったら、それはキリストの弟子ではありません。


マタイ6章33節には「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」ってあります。

これは家族だけではないですね。イエス様以上に大事にしているもの、愛しているものがあるかどうか、自分の内側を点検する必要がありますね。


イエス様の弟子は、イエス様に従うことへの妨害が出て来たら、それを拒否します。

どんな大切なものであっても、イエス様よりも優先させません。

個人的な快適さよりも、イエス様の栄光が現れることを求めます。



ぼくらは二人の主人に仕えることは出来ないんです。

すべてのものは失せていきます。この大地だって信頼できません。

あの東北の大震災と津波で嫌というほど思い知らされましたよね。

どんなに地に足をつけても、海水が襲ってきたら、ひとたまりもありません。


この世に信頼できるものは何もないです。でも唯一、イエス様だけは違います。

イエス様は唯一信頼できるお方、裏切ることのないお方です。

そして、クリスチャンにとって、一番の幸せは、イエス様の栄光を現すことです。


今日、ごいっしょにキリストの弟子として歩みませんか?

イエス様を第一とする歩みです。

そしてイエス様はあなたをご自分の弟子となるよう、招いておられます。


でわでわ~ばいばいばいばい

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