こんにちわ~

今日、二つ目の記事です。別に気合い入ってるわけじゃないんですけどね顔笑

前回の記事は、「神様の祝福の仕方」っていう記事です。



さてさて、今日は聖書の学びに行きました電車

定期的にやってる集会で、今日はローマ人への手紙27~31節から学びましたpencil*



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人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

ロマ3:28

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これ、有名な「信仰義認」です。信仰によって義とされるということ。

ぼくたちが救われるのは、律法によるんじゃないです。なんか行い、つまりたとえば人に喜ばれることをしたらとか、それなりの結果を出したらとか、そういうんでもないです。

ぼくらが救われるのは、信仰により、恵みによるんです。それも神様の側の一方的なです。


よく洗礼を受けることによって救われるっていう人がいるけど、これ大きな大きな間違い。

人は洗礼によって救われるんじゃないです。だって、そうだったら洗礼っていう行いによっちゃいますもんね。


また、罪の告白によるんでもないです。それも行いだし、大体罪の告白って、告白しても告白しても次から次へと出てきます。それくらい罪は根深いです。

きっと一生かかっても終わらないでしょうね。

でも、イエス様の十字架でそれらの罪はぜ~~~んぶ赦され、洗いきよめられ、取り除かれました。

だから、そこに信頼することなんですよね。


ぼくらは信仰により、恵みによって救われました。



今日、学びながら思ったのは、問題はその後、信じて救われた後です。

救われたら、今度は何かの行いによって信仰生活を確立させようとしたり、○○しちゃダメだとか、聖書以外に自家製の律法を作り出してしまったり、そういう傾向があるなぁって思わされたんです。

救いは信仰と恵み、信じた後も同じ、信仰と恵みです。

そこに立たないととっても危険。でも落とし穴。



そして私はこれだけ聖書を読んだとか、毎日1時間以上祈ってるとか、デボーションをばっちり毎日やってるとか、それがいつの間にやらプライド、誇りになっちゃうんです。

ある人が今日言っていて、面白いなぁって思ったんですが、そういうのはぜ~~んぶ埃だって。

そう、埃なんですよね。そして埃は掃除して捨てなきゃダメなんです。

聖霊の掃除機はダ○ソンの掃除機より運万倍きれ~~いに掃除してくださいます。

聖霊の掃除機で綺麗にして頂くことですよね。


ぼくらは本来愛される価値もないような者です。でもね、そんなぼくらの罪が赦され、綺麗に掃除され、取り除かれ、救われたんです。

これ、神様の一方的な恵みによってなんです。


いつもそのことを忘れちゃ絶対にいけないなぁって思わされました。



そして、変えてくださるのはぼくらの努力とか何か行いじゃなくて、神様の恵みの御手によってです。

変えよう!じゃなくて、変えていただくんですよね。

だからこそ、神様の恵みに依り頼むんです。


今週も主の恵みに満ちた愛の御手に信頼し、依り頼み、一歩一歩歩んでいきましょう


今週もよろしくです


でわでわ~ほtesei