こんにちわ~

みことばの分かち合いをしますね。やっぱ、こうやってみことばを分かち合えること、とっても嬉しいし、感謝です。

だって、神様のことばですもんね。


さてさて、今、ヨハネ11章から、ラザロの復活について味わっています。

ラザロの復活と言っても、現実には蘇生ですよね。だって、今、ラザロさん、いないもん。

だから厳密には復活じゃなくて、蘇生です。


で、今回は33~37節の箇所を分かち合いますね。



イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。

「どこに葬ったのか。」 

彼らは、「主よ、来て、御覧下さい」と言った。

イエスは涙を流された。

ユダヤ人たちは、ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。

しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死ななないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 



ラザロのいる村の外におられたイエス様、そのイエス様のところにマリヤが泣きながら来て、足もとにひれ伏し、「主よ。もしここに来てくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32)って言い、イエス様の足もとで泣き崩れました。

そう、ラザロは4日前、つまりイエス様の耳に病気だと入った時、もう亡くなっていたんです。


そして、ユダヤ人たちもマリヤの後を追って、イエス様のところに来ました。

これは当時の風習で、近隣に住むラビや生徒たちは、可能な限り葬儀の列に加わることになっていたんです。

ただ、彼らの中には、昔からのしきたりだからということで来ていて、別に悲しいわけではないけど、その場の空気で泣いている人もいたでしょうね。


で、そんなマリヤと一緒に来た人たちに、イエス様、「どこに葬ったのか」って 質問しました。

この質問で、悲しみのムードが一変し、空気ががらっと変わったことでしょうね。


それで、彼らが「主よ、来て、御覧ください」って、ラザロの眠っている墓を案内します。


でも、このイエス様の質問、ほんとは、これからラザロをよみがえらせるんだっていうことで、彼らの注意を喚起させ、期待感を持たせようとしたんだけど、そうはならなかったようです。

等のマリヤとマルタも、そこまでの信仰が残念ながらなかったようですね。。。



でね、ここで一番深いなぁ~って思った箇所、それはこの短い一節です。

イエスは 涙を流された


イエス様、マルタとマリヤの悲しみに同情され、一緒に泣かれたんです。

彼女たちの悲しみが如何に深いか、それがわかっていたので、彼女たちの心に寄り添われ、一緒に泣かれたんです。

しかも、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた」(33)ってありますが、この聖句の動詞は「クライオウ」とギリシャ語で言い、これは大声で泣くことなんです。

そして35節での「イエスは涙を流された」、この聖句のギリシャ語での動詞は「ダクルオウ」、涙を流すということです。

このダクルオウ、新約聖書ではこの箇所しか使われていない言葉なんです。


つまりね、この箇所、イエス様は大声で激しく泣かれたんです。

なんか、日本語のこの訳だけだと、もらい泣きみたいな感じなんですが、実際は激しく感情を出し、彼女たちのことを思ってわんわん泣かれたんです。



イエス様の人間性が現れた箇所であり、イエス様の優しさがこの一節にギュッと凝縮されていますね。



さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。


ヘブル4:14~16




イエス様は今、どうされているんでしょう?

イエス様は今、大祭司となられ、天のお父様の右の座に座られ、私たちのためにとりなし、祈ってくださっているんです。

そして、まもなく王の王として、再びこの地に帰って来てくださいます。


イエス様は真の大祭司です。

イエス様は私たちの経験した苦しみや悲しみ、屈辱を経験されました。


十字架上のイエス様、ご存知ですか?全裸にさせられ、下では人々に罵声を浴びせられ、おしっこやうんちは十字架上で垂れ流し、人には絶対に見られたくない屈辱的な部分も恥ずかしい部分も何もかも公開させられました。

そしてあまりの痛みにもだえ苦しむんです。

映画では腰に布をまとっていますが、あれは嘘、実際は布一枚覆われず、生まれたままの姿、全裸です。

これが十字架刑です。イエス様の十字架は私たちへの愛そのものですが、同時におぞましい処刑方法なんです。

その刑に、何の罪もなく、神であられるお方が、しかもユダヤ人の王として来られたお方がです。。。



イエス様は私たちの悲しみ、私たちの呻き、すべてを背負われたんです。

そのイエス様が3日目に復活されました。イエス様は今も生きておられます。

今、マルタとマリヤを思いやり、激しく泣かれたように、天において、愛に満ちた真の大祭司として私たちのために一緒に苦しみ、一緒に泣いてくださっています。

そうやって、私たちはイエス様に今この瞬間も私たちと心合わせ、とりなし祈られているんです。



イエスは涙を流された。

イエス様に感謝としか言いようがないです。愛に満ちたイエス様に信頼し、新しい一週間も一歩一歩歩んでいきましょうね。

イエス様の愛を込めて。。。。


でわでわ~