こんにちわ~

今日もとっても暑い一日でしたねぇ~

夏空が広がり、今夜も熱帯夜。こう暑いと梅雨明けがまちどおしい。。。。

あのどんよりジメジメはすご~く疲れますからね~



さてさて、話は変わりますが、今日もみことばの分かち合い、しますね。

昨日の続きです。



昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。

しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。
ヨハネ11:9~10
 



イエス様は二日後、危篤状態だと聞かされたマリアとマルタの兄弟ラザロのとこに行くって言われました。

その後、イエスは「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。(ヨハネ11:7)


弟子たちはそれを聞いてビックリしたんです。だってね、今ユダヤに行くことはめっちゃ危険だっていうことがわかっていたからです。

イエス様が生まれつきの病人を癒されたあと、ユダヤ人たちはイエス様に石を投げて殺そうとしました。

その記憶が鮮明に残っていたので、弟子たちはある意味、ラザロのとこに行かなかったことにホッとしてたのかもしれませんね。


だからね、きっと弟子たち、このイエス様の発言にビックリしたというか、衝撃を感じたんでしょうね。

だから弟子たちは「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打にしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか」って、なんとかイエス様に思い直してもらおうと説得したんです。




そして、弟子たちの説得の言葉に対するイエス様の答えが上のみことばなんです。


昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。(ヨハネ11:9~10)

イエス様、太陽が出ている時間は日に12時間、だからその時間に歩けば、光があるから歩いてもつまずかないよって言われました。

これは直接的な意味ですが、イエス様はこのことを通して、ベタニアに行くことは、そんなに危険なことじゃないよ。神様の御心の内を歩めば、つまり昼間歩けばつまずくことはないって言われたんです。

このみこころこそ、前回お話した神様の時ですよね。

イエス様は100%天のお父様の御心に従い、みこころの内に歩まれました。

だから安全なんです。だって、天のお父様の許しの中、御心の中以外で殺されたりすることは絶対にないからです。

だからイエス様は昼間歩けば大丈夫なんだって言われたんです。



この対象は夜ですよね。

夜は神様のみこころじゃなくて、自分の「おこころ」です。

自分の何かが動機で、自分の方法で行動すること、これは非常に危険なんです。



この昼間と夜、光と闇、このことを味わいながら、自分自身の歩みについて考えさせられました。

この9~11節のみことば、私たちへの適用って、自分は父なる神様のみこころの中を歩んでいるのかっていうことですよね。

御心の内を歩んでいれば安全です。だって、イエス様の臨在の光の中を歩んでいるんですからね。

これ、専門用語で「シャカイナグローリー」って言います。


だからね、鍵はイエス様のいのちの内に留まっているかどうかなんですよね。

天のお父様の御心の内を歩み、お父様の御心の時を信頼し、主を見上げるライフスタイル、ぼく自身の日々の歩みがそうでありたいなぁって思わされました。



そして、怖いのは夜歩くことなんです。

でも思うんですが、一番の悲劇って、「イエス様のために!!!」ってやってて、実際は暗闇を歩むことです。

めちゃめちゃ皮肉ですね。。。。

つまりね、「イエス様のために~!!!」ってやっても、実際、イエス様に頼らず自分の努力とか、がんばりでやったら、それはシャカイナ・グローリーの中を歩むんじゃなくて、暗闇の中を歩むことなんです。


だからね、いつも主に信頼し、主を見上げて歩むことなんですよね。


そのために大切なのは、やっぱり聖書なんです。

聖書の学びは本当に本当に重要です。だってみことば無しに昼間の生活は無理ですもんね。


そして、昼間の歩みをする方法、それは、今日、新約の時代、恵みの時代に私たちクリスチャンに与えられている「キリストの律法」という、新約聖書でイエス様が、そして使徒たちが仰った命令に従うことです。

でも、それも聖書の学びをしないとわかなんないし、勝手に解釈して間違った意味で理解したら怖いですしね。



光と闇、昼間と夜の生活、それは聖書のみことばに立つかどうかです。

お互いにイエス様に信頼し、依り頼み、昼間の生活をしましょうね



でわでわ~