こんにちわ~
今日は一日蒸し暑かったぁ~~
こういう日ってほんと、疲れますねぇ~
最近ね、思わされることがあり、ずーーっと心の中でもやもやしています。
それは何かというと、クリスチャンの成長についてです。
最近、あることがきっかけで、聖書の学びだけというのは違うのかなって感じるようになったんです。
みことばの力を知っているし、聖書のみことばは100%神様の啓示の書です。
つまり、神様のご計画は聖書の中に全部書かれています。
そして今日、旧約、新約聖書66巻、すべて完結しています。だから神様の御心を知りたければ、どこかの預言者とか、個人預言を求めて預言カフェとかに行く必要はないし、誰かに聞くのではなく、聖書から答えを求めるべきです。
だからこそ、聖書の学びって必要だし、本当に大切。
聖書は書かれた時代が違うし、文化も日本とは全くと言っていいくらいに違う。
だから今の時代に置き換えて読んだら、間違った理解となってしまうことがあります。
だからね、聖書の学び、バイブルスタディってほんと、大切なんですよね。
そして、みことばを学び、みことばを通して神様の御心を知り、みことばに従うようになると、人は変えられていきます。
これ、今もぼくのスタンスです。
バイブルスタディの大切さ、本当に実感してるし、聖書のみことばを通して人は変えられると思ってます。
でもね、いくら聖書の学びをし、知識を蓄え、人に教えられるようになってもね、その人の頭で止まっていたら、それは成長とは言えないですよね。
これ、とっても重要なんです。
ぼくたちは、みことばを学び、そのみことばに養われる必要があるし、みことばを通して神様と交わること、それが無い限り、いくら聖書を学んでも知識止まりだし、時に罪に対しても軽く扱い、傲慢になってしまいます。
ガラテヤ人への手紙2章20節には、こう書かれています。
ぼくたちはイエス様の十字架と復活の福音を受け入れ、そこに信頼を置いたとき、イエス様と共に十字架につけられ、古い私たちはもはや死んだんです。
感じようが感じまいがね。
そうは言っても。。。っていう人のため、パウロはこう言っています。
「思いなさい」ってあるけど、これ正しくは「認めなさい」です。
つまりね、ピンと来ようが来まいが、感じようが感じまいが、聖書にそう書いてあるから、そのことをそのままアーメンと認めなさいっていうことなんです。
だってね、それが客観的な事実なんですからね。
ぼくたちは空気を、冬の白い吐息とかは別として、普段見ないですよね。
電波が飛んでいることも、見えないけど、それは常識だし、当たり前ですよね。
それは、空気を吸うことで生きていることは当たり前だし、電波を通してテレビを見たり、スマホを利用したりしています。
それと同じで、ぼくたちはイエス様と共に既に死んだんだって、客観的事実として認めなさいって言ってるんです。
そして、ぼくたちの内にはイエス様が生きておられます。
だからどっかの預言者にお伺いを立てる必要は全く無いし、逆にそれは罪です。
だって、イエス様のとこに行かず、預言者のところに行ってるんですからね。
この内にいますイエス様と日々、みことばを通して交流をしないと、結局は頭でっかちで、みことばは理解しているけど、その人の心にまで届かないという現象になるんだなって、感じてるんです。
そして、そういう人は、律法的になりやすいし、みことばが凶器となり、みことばを使って相手を批判したり、裁いたりしてしまうんです。
だからね、「聖書の学び+神様との交わり」、これが大切であり、それは車の両輪のようなものなんです。
日々、みことばに養われ、みことばを通して主との深い交わりを持つ者でありましょうね。
祝福を祈ります
キリストの愛を込めて。。。
じゃぁね~

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今日は一日蒸し暑かったぁ~~

こういう日ってほんと、疲れますねぇ~

最近ね、思わされることがあり、ずーーっと心の中でもやもやしています。
それは何かというと、クリスチャンの成長についてです。
最近、あることがきっかけで、聖書の学びだけというのは違うのかなって感じるようになったんです。
みことばの大切さ
みことばの力を知っているし、聖書のみことばは100%神様の啓示の書です。つまり、神様のご計画は聖書の中に全部書かれています。
そして今日、旧約、新約聖書66巻、すべて完結しています。だから神様の御心を知りたければ、どこかの預言者とか、個人預言を求めて預言カフェとかに行く必要はないし、誰かに聞くのではなく、聖書から答えを求めるべきです。
だからこそ、聖書の学びって必要だし、本当に大切。
聖書は書かれた時代が違うし、文化も日本とは全くと言っていいくらいに違う。
だから今の時代に置き換えて読んだら、間違った理解となってしまうことがあります。
だからね、聖書の学び、バイブルスタディってほんと、大切なんですよね。
そして、みことばを学び、みことばを通して神様の御心を知り、みことばに従うようになると、人は変えられていきます。
これ、今もぼくのスタンスです。
バイブルスタディの大切さ、本当に実感してるし、聖書のみことばを通して人は変えられると思ってます。
でも、聖書の学びだけで本当にいいの?
でもね、いくら聖書の学びをし、知識を蓄え、人に教えられるようになってもね、その人の頭で止まっていたら、それは成長とは言えないですよね。これ、とっても重要なんです。
ぼくたちは、みことばを学び、そのみことばに養われる必要があるし、みことばを通して神様と交わること、それが無い限り、いくら聖書を学んでも知識止まりだし、時に罪に対しても軽く扱い、傲慢になってしまいます。
ガラテヤ人への手紙2章20節には、こう書かれています。
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
ぼくたちはイエス様の十字架と復活の福音を受け入れ、そこに信頼を置いたとき、イエス様と共に十字架につけられ、古い私たちはもはや死んだんです。
感じようが感じまいがね。
そうは言っても。。。っていう人のため、パウロはこう言っています。
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
ローマ6:11
このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
☆★○☆★○☆★○☆★○☆★○
「思いなさい」ってあるけど、これ正しくは「認めなさい」です。
つまりね、ピンと来ようが来まいが、感じようが感じまいが、聖書にそう書いてあるから、そのことをそのままアーメンと認めなさいっていうことなんです。
だってね、それが客観的な事実なんですからね。
ぼくたちは空気を、冬の白い吐息とかは別として、普段見ないですよね。
電波が飛んでいることも、見えないけど、それは常識だし、当たり前ですよね。
それは、空気を吸うことで生きていることは当たり前だし、電波を通してテレビを見たり、スマホを利用したりしています。
それと同じで、ぼくたちはイエス様と共に既に死んだんだって、客観的事実として認めなさいって言ってるんです。
そして、ぼくたちの内にはイエス様が生きておられます。
だからどっかの預言者にお伺いを立てる必要は全く無いし、逆にそれは罪です。
だって、イエス様のとこに行かず、預言者のところに行ってるんですからね。
この内にいますイエス様と日々、みことばを通して交流をしないと、結局は頭でっかちで、みことばは理解しているけど、その人の心にまで届かないという現象になるんだなって、感じてるんです。
そして、そういう人は、律法的になりやすいし、みことばが凶器となり、みことばを使って相手を批判したり、裁いたりしてしまうんです。
結論:聖書の学び+神様との交わり
だからね、「聖書の学び+神様との交わり」、これが大切であり、それは車の両輪のようなものなんです。日々、みことばに養われ、みことばを通して主との深い交わりを持つ者でありましょうね。
祝福を祈ります

キリストの愛を込めて。。。

じゃぁね~




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