キリストの優しい風

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。

2015年07月

こんにちわ~

今日もとっても暑い一日でしたねぇ~

夏空が広がり、今夜も熱帯夜。こう暑いと梅雨明けがまちどおしい。。。。

あのどんよりジメジメはすご~く疲れますからね~



さてさて、話は変わりますが、今日もみことばの分かち合い、しますね。

昨日の続きです。



昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。

しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。
ヨハネ11:9~10
 



イエス様は二日後、危篤状態だと聞かされたマリアとマルタの兄弟ラザロのとこに行くって言われました。

その後、イエスは「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。(ヨハネ11:7)


弟子たちはそれを聞いてビックリしたんです。だってね、今ユダヤに行くことはめっちゃ危険だっていうことがわかっていたからです。

イエス様が生まれつきの病人を癒されたあと、ユダヤ人たちはイエス様に石を投げて殺そうとしました。

その記憶が鮮明に残っていたので、弟子たちはある意味、ラザロのとこに行かなかったことにホッとしてたのかもしれませんね。


だからね、きっと弟子たち、このイエス様の発言にビックリしたというか、衝撃を感じたんでしょうね。

だから弟子たちは「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打にしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか」って、なんとかイエス様に思い直してもらおうと説得したんです。




そして、弟子たちの説得の言葉に対するイエス様の答えが上のみことばなんです。


昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。(ヨハネ11:9~10)

イエス様、太陽が出ている時間は日に12時間、だからその時間に歩けば、光があるから歩いてもつまずかないよって言われました。

これは直接的な意味ですが、イエス様はこのことを通して、ベタニアに行くことは、そんなに危険なことじゃないよ。神様の御心の内を歩めば、つまり昼間歩けばつまずくことはないって言われたんです。

このみこころこそ、前回お話した神様の時ですよね。

イエス様は100%天のお父様の御心に従い、みこころの内に歩まれました。

だから安全なんです。だって、天のお父様の許しの中、御心の中以外で殺されたりすることは絶対にないからです。

だからイエス様は昼間歩けば大丈夫なんだって言われたんです。



この対象は夜ですよね。

夜は神様のみこころじゃなくて、自分の「おこころ」です。

自分の何かが動機で、自分の方法で行動すること、これは非常に危険なんです。



この昼間と夜、光と闇、このことを味わいながら、自分自身の歩みについて考えさせられました。

この9~11節のみことば、私たちへの適用って、自分は父なる神様のみこころの中を歩んでいるのかっていうことですよね。

御心の内を歩んでいれば安全です。だって、イエス様の臨在の光の中を歩んでいるんですからね。

これ、専門用語で「シャカイナグローリー」って言います。


だからね、鍵はイエス様のいのちの内に留まっているかどうかなんですよね。

天のお父様の御心の内を歩み、お父様の御心の時を信頼し、主を見上げるライフスタイル、ぼく自身の日々の歩みがそうでありたいなぁって思わされました。



そして、怖いのは夜歩くことなんです。

でも思うんですが、一番の悲劇って、「イエス様のために!!!」ってやってて、実際は暗闇を歩むことです。

めちゃめちゃ皮肉ですね。。。。

つまりね、「イエス様のために~!!!」ってやっても、実際、イエス様に頼らず自分の努力とか、がんばりでやったら、それはシャカイナ・グローリーの中を歩むんじゃなくて、暗闇の中を歩むことなんです。


だからね、いつも主に信頼し、主を見上げて歩むことなんですよね。


そのために大切なのは、やっぱり聖書なんです。

聖書の学びは本当に本当に重要です。だってみことば無しに昼間の生活は無理ですもんね。


そして、昼間の歩みをする方法、それは、今日、新約の時代、恵みの時代に私たちクリスチャンに与えられている「キリストの律法」という、新約聖書でイエス様が、そして使徒たちが仰った命令に従うことです。

でも、それも聖書の学びをしないとわかなんないし、勝手に解釈して間違った意味で理解したら怖いですしね。



光と闇、昼間と夜の生活、それは聖書のみことばに立つかどうかです。

お互いにイエス様に信頼し、依り頼み、昼間の生活をしましょうね



でわでわ~


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こんにちわ~

今日はほんと、暑かったですねぇ~~~

一気に真夏になったような感じで、夏空が広がっていました。

セミが鳴いていないのがとっても不思議というか、寂しい気がします。。。。



さてさて、今日もみことばの分かち合い、しますね。 

今朝はヨハネ11章1~16節を味わいました。


この箇所なんですが、ベタニアに住んでいる マリアとマルタの村の出であるラザロに起こった出来事についての箇所です。

このラザロが病気にっかりました。病気と言っても風邪とかそういうのではなく、重病で危篤状態でした。

今の時代なら、集中治療室で面会謝絶状態です。

いつどうなってもおかしくない状態の中、マリアとその姉妹であるマルタは、イエス様なら!っていう思いから、使いの人をイエス様のところに遣わしました。


「主よ、ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です」(3b)



それに対してイエス様、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」(4節)と言われました。

ラザロの病気は死で終わらないってイエス様、言われたんです。ラザロは復活、正確にはそのあと死ぬんですから蘇生ですよね。

で、このラザロは蘇生します。このラザロのよみがえりの奇跡を通して、イエス様はご自身の栄光を現されたのでした。

これがこの箇所の出来事です。





今回、考えさせられたのは、下のみことば、5~6節です。

イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。 (5~6節)

イエス様、ラザロが病気で大変な状況なのに、あえて2日もそこに留まられたんです。

これの箇所を初めて読んだ方はイエス様って冷たいって思われるかもしれませんね。だって重病のラザロをそのままにして、2日もそこに留まられたんですからね。誰も初めて読んだときは冷たいなぁって思われることと思います。



でもね、イエス様は決して冷たいお方じゃないんです。

そうじゃなくて、イエス様はご自分の思いよりも、天のお父様の御心に従ったんです。


神様のタイムスケジュール、それは2日間そこに行くことではないっていうことです。

このことをイエス様は聞いています。それだけ天のお父様との関係が密だったんですね。



自分はどうなんだろうって思ったんです。

天のお父様のタイムスケジュール、それは私たちの内にも与えられています。

その御心にアーメンと信頼しているかということです。


天のお父様のタイムスケジュールじゃなくて、自分のタイムスケジュールを立て、そのスケジュールどおりにならないとき、焦り、もがき、どうしようって不安になります。

でもこれ、自分が中心んなんですよね。


あぁ、そうじゃないんだなぁって思わされたんです。

天のお父様のタイムスケジュール、そこに自分を合わせること、そして主に信頼することですね。



わたしの時がまだ満ちていないからです。(ヨハネ7:8)

これなんですよね。今まだ動かないのは、お父様の時が満ちていないからなんですよね。

そしてお父様の時が満ちた時、ご自身のご計画のハンドルがぐーっと動かされるんです。



主はぼくらのすべてをご存知であり、主の時にすべての必要は満たされます。

だから、恐れず、主の御心の時に信頼していたいんです。


天のお父様の時か、自分の時か、どっちを信頼するかで、この先が決まります。

自分の時を信頼する、これほど危険であぶないことはないです。

だって当てにならないし、そこにあるのは努力と不安と失望だけです。。。。


天のお父様のタイムスケジュールこそ、確かです。

そして今日聖書を通して語られています。


これからの歩み、天のお父様のタイムスケジュール、そこに信頼し、聞き従う歩みをすることができますように


でわでわ~


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こんにちわ~

今日は暑かった~ 
汗びっしょり

今も暑く、今夜も熱帯夜になりそうですね。



そんな暑い日、無性にアレが食べたくなりました。

アレ、そう、かき氷ですカキ氷

ということで、かき氷デビューです


それで鎌倉に行きました

なみへいというお店です。

このお店、本来たい焼きがめっちゃ美味しいお店です。

で、夏になるとかき氷も扱っているんです。

ここのたい焼き、大好きです♪


今回食べたのはこれです。

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これ、シロクマっていうかき氷です。

九州名物のかき氷です。


これ、めちゃくちゃ美味しかったです。

シロップがヨーグルトソース、氷もさらさらふんわり♪

味も深いい

幸せなひとときでした




その後、海が見たくなり、近くの海に行きました

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海はやっぱ綺麗♪

その後、少し歩いて稲村ヶ崎というとこに行きました。

そして、稲村ヶ崎公園というとこに行きました。

ここ、海が綺麗に見える公園なんです。


着いたら日が沈みそうでした。


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そして日が沈みました。

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とっても綺麗でしたよ。癒されました~♪

日の沈む海を見ながら、いろんなことを思い巡らしました。


そして帰りは歩かず、江ノ電に乗りました。

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これ、四両編成で、二両ずつに分かれています。

でね、後ろの二両に乗ったんですが、なんと床が板、ワックスが塗り込まれている木の床だったんです。

シートも昔のです。

今でもあるんですね。なんかレアな体験したなぁって嬉しくなりました


そんなこんなな一日でした~


今週も主の御手の中、主に信頼し、主に依り頼み、前進していきます。


でわでわ~




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こんにちわ~

今日も無事一日が終わりました 

今日はほんと暑かったですね~ 7月らしいんですけど、この暑さ、久しぶりだなぁって思いました。

このまま梅雨、明けてくれるとうれしいです。


さてさて、そんな中というか、今日はお出かけしました。聖書の学び会です。

今日はローマ1章16~17節からの学びでした。



わたしは福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり、信仰に進ませるからです。
「義人は信仰によって生きる」と書いてああるとおりです。




今回、「信仰」ということについて教えられました。


それ(神の義)は、始めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。(新共同訳)(17a)

これなんですよね。神の義、つまり福音は初めから終わりまで一貫して信仰を通して実現されるんです。

ここを外すととんでもないことになっちゃいます。



ここで「救い」ということですが、救いって一言で言いますが、でもね、ぼくたちが救われるというのは、イエス様を信じて救われる、そこで終わりじゃないんです。

正確にいうと三段階あるんです。


①、義認(過去形の救い)

これが普通ぼくらが使う「救われました」っていうことです。

この救いなんですが、どうやったら救われるんでしょう?立派な人になること?何か慈善活動とか、教会の奉仕をするとか、献金をいっぱいするとか、そういうこと????

そうじゃないです。聖書は何と言っていますか?「初めから終わりまで信仰を通して」ですよね。


じゃぁ、どうしたら救われるんでしょう?

それは、「福音の三要素」と言われるものを信じることです。

第一コリント15章2~4節にこのように書かれています。

また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのではないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、


  • イエス様が私たちの罪のために死なれたこと
  • 墓に葬られたこと
  • 三日目によみがえられたこと

これが福音です。この3つはセットで、この3つを自分のこととして信じ受け入れ、そこに信頼を置くなら、信じたその瞬間に救われます。

そこに必要なのは信仰だけ、そう「信じます」っていう信仰だけです。
それ以外何一つ必要ないです。

時々、イエス様を信じて、洗礼を受けたら救われるっていう人がいますが、それは大きな間違いです。
だって、救いは信仰のみですよ。聖書は信仰だけだよって言ってますよね。
ところが、そこに「洗礼」、バプテスマが入ってくると、その瞬間、信仰+αになっちゃいます。

間違えないでくださいね、洗礼は救いの条件じゃないし、福音の三要素以外のものを救いの条件に入れちゃ絶対に駄目です。

私たちがこの「福音の三要素」を信じた瞬間に義と認められ(義認)、つまり救いを受けるんです。だからこれは過去形の救いです。



②、 聖化(現在進行形の救い)

この福音の三要素を信じた瞬間に、私たちの罪は赦され、神様は私たちを義と認めてくださいます。

でも、それでおしまいじゃないんです。

このあと、聖化の歩みが始まるんです。


聖化ってなんでしょう? それは私たちの救いが完成するためのプロセスです。

福音の三要素を信じて義認の恵みを受けました。でもそれは立派な人間になったということではありません。

だって、そのあとも失敗すること、ありますもんね。

私たちのうちには古い、救われる前の性質が残っていて、それが悪さをするんです。

だから失敗をしてしまったり、時に誘惑に負けてしまったりもします。


でもね、神様は私たちをご自身の似姿に変えるため、時に試練とかを通して、また人を通してとか、いろいろな形で私たちを練り、造りかえをしてくださるんです。

それはまるで陶器師が陶器を作るために土を練って火にかけるようにです。

私たちを練り直し、火にかけて、主の似姿に変えてくださっているんです。


言わば、ぼくたちは「工事中」の状態、救われた後の生涯を通しての神様の作業です。


でもね、この聖化の過程なんですが、悲しいかな、奉仕とか何か、信仰以外のものが入ってきちゃうんです。

「さぁ、救われたんだから、イエス様のために奉仕しましょうね。献金しましょうね。イエス様に喜ばれる歩みをしましょうね」って、救われたての人に、今までは優しくゲスト扱いだったのに、手のひらを返すようにそういうふうに言ってしまうケース、案外多いと思います。


これ、違いますよ。これだと聖化のプロセスも努力によって、たとえば奉仕だとか、頑張ってイエス様に喜ばれる歩みをするとか、信仰に+αを付けることになります。

あくまで、聖化のプロセスも「信仰のみ」です。

大体、頑張ってイエス様に喜ばれる歩みをしましょうとか言われても、頑張って出来るもんじゃないです。

それを聖書は「肉」と言っています。

努力してりっぱなクリスチャンになろうとしても、無理だし、そこにあるのは罪悪感と不安感で、「こんな信仰じゃ駄目だ」ってなっちゃうんです。



③、栄化(未来形の救い)

この聖化が完成すること、これが「栄化」です。

栄化って「栄光化」の略です。つまり、栄光が与えられ、イエス様の似姿となることです。

私たちが死んだ時、栄光の姿に変えられます。そしてイエス様の似姿となり、もう死も罪も老いも病もなくなります。


だからね、聖化ってそのためのプロセスなんです。

でもそれも信仰によるんです。もちろん、栄化もです。


ところが、ぼくらは不安になって、救われて何年も経つのにまだ変わっていないとか、これじゃ駄目だとか、思って、頑張っちゃうんです。

そして、自分の内面を見ては「はぁ。。。」って落ち込んじゃいます。


教会では元気な不利をして、一歩教会から外に出ると、デボーション出来てないとか、ぜんぜん祈ってないとか、そうなっちゃいます。

教会では信仰的な言葉を使い、立派に装っているけど、実際は劣等感を持ってしまう。。。


どうしてそうなっちゃうんでしょう。それは信仰に何かを付け加え、努力によって立派なクリスチャンになろうとするからです。

そしてそのギャップに気づき、落ち込んじゃったり、自分はまだまだだとか、ダメクリだ~とか、そうなっちゃうんです。



でもね、聖書は「初めから最後まで、信仰を通して実現される」って言ってますよね。

信仰以外の何かを持ち出したりすること、それは違うんです。

もちろん、奉仕は大切、献金も大切、でもそれらは聖化のための条件とか、必須要因とかじゃありません。

聖化されていくプロセスの中で、自然に出てくるもので、内側から「したい」という思いが起こされ、そして奉仕をするんです。

それを立派なクリスチャンになるためってやっちゃうと、混乱をきたらす結果となります。



そして、聖化のプロセスは目に見えるものじゃありません。

自然に変えられていくんです。

ぼくたちの内側には神様のいのちの種が植えられています。そして、その種が神様の時に、神様のタイミングで芽を出させ、成長させてくださるんです。

ガーデニングが好きな方、多いと思いますが、お花の種を買ってきて、植木鉢にその種を蒔きます。

でも、どうですか、たとえば翌日、種を蒔いた植木鉢を見て、どれだけ芽が出てるんだろうって掘り起こして種を見るようなこと、しないですよね。

そんなことしたら生えるものも生えないです。



おんなじことをぼくらは聖化のプロセスの中でやっちゃ運です。
 
まだ変えられていない、これじゃ駄目だってね。。。


でも、いつ芽が出るかなんて、誰にもわかりません。いつの間にか、ある日ある時植木鉢を見たら生えてたみたいな、そんなことです。


頑張る必要はゼロ、必要なのは信仰、何の信仰かというと、神様に信頼する信仰です。

ぼくらが変えるんじゃないし、教会の牧師が変えるのでもありません。信仰の先輩でもないし、配偶者でもありません。

その人たちは、言わば、水を与えたり、肥料を与えたりする人たちで、その人たちはそれ以上のことは出来ません。

そう、成長させるのは神様なんです。

その神様のタイミングに身を任せるのです。そして肩の力を抜いて、主に信頼し、依り頼むのです。

そのとき、神様の方法で私たちを変えてくださるんです。ゆっくりゆっくり、神様は私たちを練りきよめてくださいます。

その神様の巧みな業に信頼し、お任せするのです。



今日、お互いに信仰に何か付け加えているものがあるなら、それを手放し、主に信頼し、依り頼む歩み、しませんか。

肩の力を抜いて、自然体なクリスチャンライフ、これは私たちの聖化を神様に委ねているクリスチャンの姿です。

そうやって、私たちは自由にされていくんですよね。



他にも教えられたことはあるんですが、とりあえずこの辺で。。。。。



でわでわ~

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こんにちわ~

今日は久しぶりの晴れ、ず~~っと雨、雨、雨でしんどいなぁ~って思ってたんで、久しぶりの青空に癒やされる一日でした。

やっぱ、晴れ、いいですよね。

ここ数日、お疲れモードだっただけに、モヤが取れたみたいな、ホッとしています。

とはいうものの、今夜は熱帯夜、明日はすご~く暑いみたいですけどね~



さてさて、話は変わるんですが、今朝、みことばを味わいました。ルカ17章です。

弟子としての奉仕の在り方について、イエス様がお話されている箇所です。




使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」


しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。


ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野から帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事しなさい』としもべに言うでしょうか。


かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。


しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。


あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」






この箇所の前半は昨日分かち合いましたね。

今日はこの箇所の後半を味わったんです。


今日味わったのは、忠実なしもべについてです。


ぼくたちの社会の中で、しもべとか言われても、正直ピンと来ないですよね。

だからね、この箇所を読んでもなかなかピンと来ないというのが本音でした。


ねぇ、主人が帰って来て、優しい主人だったら、きっと「ごくろうさま、一緒に食べよ」って言うんじゃないのかなぁとかね。

でも、これ、何度も言ってますが、悪い例ですよね。現代に置き換えて聖書を読むことはとっても危険です。


でね、当時の習慣はどうったのかというと、そんな「一緒に食べましょう」なんて言う主人はどこ探しても一人もいません。

むしろ主人はしもべに食事を当たり前のように作らせ、用意をさせました。

じゃぁしもべはいつご飯を食べるのかというと、主人が食べ終わってからです。


で、しもべが忠実に一生懸命に働いたからといって、主人はしもべに感謝を表すようなことはしませんし、ありがとうのあの字も出ません。

だって、しもべは忠実に仕えて当たり前ですから。

これがイエス様の時代の主人としもべの関係なんです。



でもイエス様、こうやって見ると、当時の人たちの生活に密着した話をされていますよね。

きっと聞いている側はすご~~~くわかりやすかったことでしょうね。



あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、「わたしは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです」と言いなさい(10節)。

イエス様、ここで弟子の姿勢についてお話されています。

この主人としもべの関係を通して、イエス様の弟子としてどういうスタンスでいるべきなのかについてお話されたんです。


ここ新共同訳聖書では「わたしどもは取るに足りない僕(しもべ)です。しなければならないことをしただけです」、口語訳聖書では「わたしたちはふつつかな僕(しもべ)です。すべき事をしたに過ぎません」と訳されています。


この箇所を味わいながら、ここには自己主張はないなぁっていうことを感じました。

「これだけやったから」とか、「ちっとも認めてくれない」とか、自分の権利を主張したり、見返りを求めたり、そういうことは全然ないですね。

逆に「取るに足りない僕です」って、そこにあるのは自己主張や我を張るんじゃなくて、しもべとしてのへりくだりです。



自分の内にどれだけあるんだろうって考えさせられました。

でも思ったんですが、イエス様こそ、このスタンスだったんですよね。

だって自己主張せず、父なる神様の御心だけを行い、父なる神様の御心をいつも第一とされていました。

しかも十字架にまでかかられ、最後の最後まで一切自己主張せず、まさに「取るに足りないしもべです」のスタンスだったんですよね。



あぁ、まだまだ足りない者だし、自己主張が出てしまう面も多々あるんですが、でもね、一歩一歩、この「取るに足りないしもべです」のスタンス、イエス様の弟子として、へりくだり、しもべの心で歩んでいきたいなって思わされました。

でも、これも自分の力で、がんばって「しもべになるんだ~~」ってやっちゃダメですよね。

これやった瞬間にしもべじゃなく、自己主張になっちゃいますよね。


ぼくらが努力してしもべの心を身につけるんじゃなくて、内なる聖霊にしていただくんです。

だからね、聖霊に対して心をオープンにしている必要があるんですよね。


私たちじゃなくて、主にしていただく。これなんですよね。

だって、すべては主の御手の中でですからね




今日一日、そんなことを思い巡らしていました。

明日は土曜日、一週間の最後の日、明日も主に信頼し、しもべの心で歩んでいけますように


でわでわ~


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こんにちわ~

今日も無事終わりました。なんかホッとしますね


今朝、みことばを味わいましたが、その時味わった箇所はルカ17章にあるからし種のたとえの箇所でした。




使徒たちは主に言った。「私たちの信仰を増してください。」

しかし、主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑に、『根こそぎ海の中に植われ』といえば、言いつけどおりになるのです。」


ルカ17:5~6
 



この箇所を味わいながら、「量より質」なんだなぁって感じました。

「からし種ほどの信仰」って、質的に正しい信仰、いのちが宿った信仰です。

からし種ってゴマ粒みたいに本当に本当に小さな種。これは最も小さいものを指す格言的言葉です。



信仰はからし種一粒くらいでOKなんですよね。つまり、どんなに小さな信仰であってもいいっていうこと。

問題は大きいか小さいかじゃないんです。問題は質です。



その信仰がどんなに小さくても、、質的に正しい信仰なら、桑の木を切り倒すって、イエス様言われたんです。



この桑の木はただの桑じゃなくて、いちじく桑の木なんです。

この木は地中に根を広げています。



ぼくたちにとっての桑の木って、プライドとか自我の問題。

からし種のような小さな信仰であってもぼくたちの内なる桑の木を取り除いてくださる。



日々の生活の中で、からし種の信仰、たとえ小さくても、いのちある信仰者でありたいなって思わされました。

いのちある信仰ってなんだろうって思うとき、イエス様との密接な交流、これが土台であり、イエス様に信頼しているかどうかっていうことなんだなぁって思うんです。

日々の歩みの中で、イエス様に信頼し、依り頼み、イエス様としっかりと結びつく。

そしてその中心はみことば。いつもみことばに聴く者でありたいですね。



いのちある信仰者、明日も主との密な交流を持ちたいな♪

主に信頼し、主の愛の中にとどまって。。。。


そんなことをこの一日思い巡らしました。


明日は金曜日、主の愛の御手の中に留まり、主に信頼し、主を味わい、主を楽しむ一日となりますように。。。



いろんなことがありますが、でもその中にあっても安全なのは主の愛の御手

主の愛の御手の中に留まり、からし種の信仰で、歩みます。


でわでわ~


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