キリストの優しい風

キリストの優しい風に吹かれ、自由に導かれ、癒やされ、変えられていく幸せをあなたと。。。

2015年07月

こんんちわ~ まんなです。

今日もみことばの分かちあい、しますね  

今日の箇所はヨハネ11章47~48節です。



そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。

「われわれは何をしているのか。あのひとが多くのしるしを行っているというのに。
もしあのひとをこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」
 


イエス様がラザロを生き返らせた奇跡、これはメシア的奇跡と言って、メシアでなければ出来ないとパリサイ人たちや律法学者たちが教えていた奇跡です。

そのメシア的奇跡を目の当たりにし、そこにいた民衆はこぞって、この方こそメシアだって信じました。

ところが、信じなかった人たちがいたんです。その人たちはパリサイ人の手下で、この奇跡を見ても感動すること無く、パリサイ人たちのところに行って報告しました。

今日の箇所はその報告を受けたパリサイ人たちの反応です。


そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに」(47)

手下たちの報告を受けて、すぐ議会を召集しました。

報告を受けたのは祭司長とパリサイ人。手下たちはパリサイ人に報告したのに順番は「祭司長とパリサイ人」っておかしくないですか?

実はね、この箇所をもって、祭司長とパリサイ人の権力が逆転したんです。

祭司長というのは、復活を否定しているサドカイ派の人たちです。


で、議会というのはサンヘドリンと言われているもののことで、彼らは急遽その議員たちを召集しました。

突然のことで、当然全員というわけにはいかなかったでしょうね。



で、祭司長とパリサイ人たち、何と言ったかというと、「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに!」

あの人、つまりイエス様のことですね。イエス様が多くのしるしを行っているって彼らは言っているんです。

「しるし」、彼らはイエス様のしるし、このしるしってメシア的奇跡のことです。

っていうことは、祭司長とパリサイ人たちはイエス様がメシアだということは理解しているんです。

これ、凄くないですか!だってその上で「われわれは何をしているのか」って言って、動揺し、焦って居るんですからね。



48節を見ると、彼らの本音がわかります。

もしあの人をこのままにしておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。

どうですか?これが彼らの本音です。

彼らはイエス様がメシアだっていうことは認めています。でもそれよりも自分の立場の方が重要なんです。

もっと言うと、イエス様がメシアだろうかどうだろうが、そんなことはどうでもよいのです。


「ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる」、これ、新改訳聖書の訳ですが、新共同訳聖書ではこう訳されています。

「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」

新改訳聖書で「土地」と訳されているところを、新共同訳聖書では「神殿」と訳しています。

ギリシャ語では「トポス」という言葉なんですが、ここでは新共同訳聖書の「神殿」という訳の方がよいのだと思います。


祭司長たちは神殿、つまり自分の職場や地位が一番重要で、国民のことは二の次なのです。

このまま放っておくと、民衆はイエス様が約束のメシアだと信じ、王として担ぎ出すだろう。そうなったらローマがだまっていない。ローマがきっと介入し、神殿を崩壊し、国を滅ぼしてしまうだろうって思い、焦ったんです。



すごく考えさせられます。彼らは自らの地位を守ることに固執して、結果メシアを拒否してしまいました。

本来、彼らが一番待ち望んでいた筈なのに。。。。



でもね、我々はどうだろうって思うと、あんまり笑えないんです。。。。

もちろん、「そんなぁ~、イエス様、拒否したことなんてないです!」って思われるかもしれません。

でもね、イエス様の御心よりも自分の計画とか、イエス様のやり方よりも自分のやり方っていうこと、ないですか。

そうやって考えた時、ぼくらも彼らと似たり寄ったりだなって思わされるんです。



また、教会レベルでも同じです。

聖書の真理よりも会衆の気持ちとか、教会員の人たちを躓かせないように真理を語ることを控えたり、聖書のみことばを今日の状況に合わせて、自分たちの都合のよいように解釈するとか。。。

イエス様よりも教会員となったとき、これは彼らと似たり寄ったりになってしまいます。


この箇所、すごく考えさせられるなって自分自身、内側を探られました。

純粋に主を畏れ、主の御心に応答し、アーメンと行動する、そして主を常に第一とする者でありたいと心から願います。


だってね、我々は死んだ後、また携挙された後、キリストの裁きの御座での裁きが待っているんですからね。

その時、すべては暴かれるんですからね。

そして、その時主に「よくやった、忠実な良きしもべよ」って言われたいですもんね。



尚、このイエス様のメシア性を拒否した結果、その70年後、神殿は崩壊し、エルサレム自体も崩壊し、ユダヤ人は流浪の民となってしまいました。

イエス様を拒否した結果、彼らが恐れていたとおりのことが起こったのです。

これはとっても厳粛なことですね。。。



でも、私たちは忠実な主のしもべとして、みことばを慕い、みことばに忠実に従う者でありたいですね。

みことばを勝手に私的解釈しようとしたり、主のご計画より自分の計画や願い、好みを優先するようなことをせずね


この箇所を味わいながら、そんなことを思わされました


今週も後半戦、後半も主に従い、主に依り頼んで前進しましょう



でわでわ~

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こんにちわ~

今日も暑かったですね

梅雨も明けたし、今年は例年以上に猛暑となるとのこと、暑さ対策、万全にしたいですよね

そんなことを思わされます。


さてさて、今日もみことばの分かち合い、しますね。



そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。

そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を招集していった。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。

もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」

ヨハネ11:45~48
 



ラザロ、生き返りました。

ここで注意する必要があるのは、復活とは何かっていうこと。

復活というのは、今までとは違った体、つまり栄光の体に変えられ、もう死ぬことはありません。

それに対して蘇生とは、死んだ状態から、再び生を受けること。生き返ることですね。でも、その人もある一定期間生きますが、後にその人は再び死んでしまいます。


よくラザロの復活っていうけど、ラザロは復活と蘇生、どちらでしょう。。。。

今、ラザロが生きているなどとは聞いたことはないです。そう、ラザロは死んでいて、今生きていないんです。


だからね、ラザロは蘇生であって、復活ではありません。




さてさて、そのラザロが生き返ったんですが、それを見た群衆とパリサイ人の手下たち、反応が全く違います。


そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。(45)

このラザロの蘇生って、メシアじゃなきゃできない奇跡です。

パリサイ派の人たちや律法学者たちはそう教えていたんです。それが目の当たりとされたんです。

「ラビたちが言っていたメシア的奇跡、この方がやってのけた!っていうことはこの方、メシアじゃん!!!」

これが民衆の反応。彼らは単純に、自分たちが教わったことが目の前に起こったから、この方はメシアだって理解したんです。



それに対してパリサイ人の手下たち。

しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。(46)

幾人かの人たち、イエス様の奇跡を見ても素直に信ぜず、パリサイ人たちに報告しました。

へそ曲がり。。。。 率直な感想。。。。

でも実際、そうなんです。イエス様の奇跡を見て、しかもメシアじゃなきゃできないって常日頃聞かされてきた奇跡が今目の前でなされたんですよ。

それでも受け入れず、拒否してパリサイ人たちに報告したんです。


彼らはイエス様をメシアと認めなかったんです。



この箇所を味わいながら思わされたのは、この背後にあるのって反発心だとか、反抗心だとか、そういうものなのかなって思ったんです。

最初っから、イエスはメシアじゃないっていうメガネでイエス様を見ていてるんですよね。

だから、いざメシア的奇跡をされても、固定観念で「それは違う!」ってなっちゃうんです。

っていうことは、信じたくないっていうことなんですよね。。。。



単純な信仰の民衆の人たちとパリサイ人の手下たち、ほんと、対照的ですね。

単純が一番だなぁって思わされます。


でもね、このパリサイ人の手下たちとおんなじようなこと、ぼくたちもやっちゃうことあると思うんです。

もちろん、イエス様を拒否るなんてしないですよね。でもね、単純にみことばを信じるんじゃなくて、自分の小さな小さな経験や判断、考えを土台にして、その範囲内でイエス様を信じるっていうこと、これ、彼らと似たり寄ったりだと思うんです。

或いは、イエス様じゃなくて、自分の内面をじーっと見つめ、これじゃダメだって自分を責めてしまうこと、これもそうです。


私たちの何かを通して、イエス様の働きを制限していたり、そんなの無理だって勝手に決めて、そこにイエス様の力も当て嵌め、制限していないのかっていうこと、すごく考えさせられますね。。。


単純が一番です。

みことばを素直に受け入れること、書いてあることを書いてあるとおりにアーメンと受け入れ、自分にみことばを合わせるんじゃなくて、みことばに自分を合わせること、これがとっても大切なんですよね。

だからこそ、自分の心を見張ることが大事なんですよね。そして、自分がみことばに服し、みことばに自分を合わせているか、みことばの価値観に自分を合わせているか、日々、瞬間瞬間チェックする必要があるんです。


これが健全なクリスチャンなんですよね


今日はこのみことばを味わいながら、そんなことを思い巡らしました


今週も主の見えざる御手の中でのこと、主に信頼し、イエス様を制限せず、単純にみことばをアーメンと受け入れ、自分をみことばに合わせる歩みが出来ますように。。。。


でわでわ~


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こんにちわ~

みことばの分かち合いをしますね。やっぱ、こうやってみことばを分かち合えること、とっても嬉しいし、感謝です。

だって、神様のことばですもんね。


さてさて、今、ヨハネ11章から、ラザロの復活について味わっています。

ラザロの復活と言っても、現実には蘇生ですよね。だって、今、ラザロさん、いないもん。

だから厳密には復活じゃなくて、蘇生です。


で、今回は33~37節の箇所を分かち合いますね。



イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。

「どこに葬ったのか。」 

彼らは、「主よ、来て、御覧下さい」と言った。

イエスは涙を流された。

ユダヤ人たちは、ご覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。

しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死ななないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 



ラザロのいる村の外におられたイエス様、そのイエス様のところにマリヤが泣きながら来て、足もとにひれ伏し、「主よ。もしここに来てくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32)って言い、イエス様の足もとで泣き崩れました。

そう、ラザロは4日前、つまりイエス様の耳に病気だと入った時、もう亡くなっていたんです。


そして、ユダヤ人たちもマリヤの後を追って、イエス様のところに来ました。

これは当時の風習で、近隣に住むラビや生徒たちは、可能な限り葬儀の列に加わることになっていたんです。

ただ、彼らの中には、昔からのしきたりだからということで来ていて、別に悲しいわけではないけど、その場の空気で泣いている人もいたでしょうね。


で、そんなマリヤと一緒に来た人たちに、イエス様、「どこに葬ったのか」って 質問しました。

この質問で、悲しみのムードが一変し、空気ががらっと変わったことでしょうね。


それで、彼らが「主よ、来て、御覧ください」って、ラザロの眠っている墓を案内します。


でも、このイエス様の質問、ほんとは、これからラザロをよみがえらせるんだっていうことで、彼らの注意を喚起させ、期待感を持たせようとしたんだけど、そうはならなかったようです。

等のマリヤとマルタも、そこまでの信仰が残念ながらなかったようですね。。。



でね、ここで一番深いなぁ~って思った箇所、それはこの短い一節です。

イエスは 涙を流された


イエス様、マルタとマリヤの悲しみに同情され、一緒に泣かれたんです。

彼女たちの悲しみが如何に深いか、それがわかっていたので、彼女たちの心に寄り添われ、一緒に泣かれたんです。

しかも、「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた」(33)ってありますが、この聖句の動詞は「クライオウ」とギリシャ語で言い、これは大声で泣くことなんです。

そして35節での「イエスは涙を流された」、この聖句のギリシャ語での動詞は「ダクルオウ」、涙を流すということです。

このダクルオウ、新約聖書ではこの箇所しか使われていない言葉なんです。


つまりね、この箇所、イエス様は大声で激しく泣かれたんです。

なんか、日本語のこの訳だけだと、もらい泣きみたいな感じなんですが、実際は激しく感情を出し、彼女たちのことを思ってわんわん泣かれたんです。



イエス様の人間性が現れた箇所であり、イエス様の優しさがこの一節にギュッと凝縮されていますね。



さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。


ヘブル4:14~16




イエス様は今、どうされているんでしょう?

イエス様は今、大祭司となられ、天のお父様の右の座に座られ、私たちのためにとりなし、祈ってくださっているんです。

そして、まもなく王の王として、再びこの地に帰って来てくださいます。


イエス様は真の大祭司です。

イエス様は私たちの経験した苦しみや悲しみ、屈辱を経験されました。


十字架上のイエス様、ご存知ですか?全裸にさせられ、下では人々に罵声を浴びせられ、おしっこやうんちは十字架上で垂れ流し、人には絶対に見られたくない屈辱的な部分も恥ずかしい部分も何もかも公開させられました。

そしてあまりの痛みにもだえ苦しむんです。

映画では腰に布をまとっていますが、あれは嘘、実際は布一枚覆われず、生まれたままの姿、全裸です。

これが十字架刑です。イエス様の十字架は私たちへの愛そのものですが、同時におぞましい処刑方法なんです。

その刑に、何の罪もなく、神であられるお方が、しかもユダヤ人の王として来られたお方がです。。。



イエス様は私たちの悲しみ、私たちの呻き、すべてを背負われたんです。

そのイエス様が3日目に復活されました。イエス様は今も生きておられます。

今、マルタとマリヤを思いやり、激しく泣かれたように、天において、愛に満ちた真の大祭司として私たちのために一緒に苦しみ、一緒に泣いてくださっています。

そうやって、私たちはイエス様に今この瞬間も私たちと心合わせ、とりなし祈られているんです。



イエスは涙を流された。

イエス様に感謝としか言いようがないです。愛に満ちたイエス様に信頼し、新しい一週間も一歩一歩歩んでいきましょうね。

イエス様の愛を込めて。。。。


でわでわ~
 

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こんにちわ~

台風、大変でしたね。今回のはものすごい勢力で、西日本の地域に直撃し、被害もいろいろありましたね。

被害を受けられた方のうちに深い慰めがありますように。
そして、一日も早く復興しますように。



さてさて、今日なんですが、スタバ行って来ました

ずーっと新しいフラペ食べたくて、それでです。


昨日、無事体調に異常がなかったこともあり、これからのタイムスケジュールがわかったこともあり、ご褒美です



今回頼んだのは、ピーチインピーチフラペチーノ


image


これ、甘くコンポートされた桃の実がしっかり入っていて、シャリシャリひんやりでめっちゃおいしかったです。

疲れた身体に癒やしのひとときでした



明日から三連休ですね。

この連休、主の恵みに満ちた休日となりますように


でわでわ~
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こんにちわ~

昨日なんですが、病院に行きました。

何しに行ったって、病気の治療というか、検診だったんです。


実はね、ネフローゼ症候群という病気で、一年半前から煩いわました。

2013年の.12月、風邪のような症状になり、食欲なくなったんです。

風邪の症状がずーっと続き、なかなか治らず、おかしいなって思ってたんですが、まっ無理がきいたんで、直ぐ治るだろうと思い、ほうっておきました。


で、クリスマスも終わり、体調も悪かったんで、地元の内科の病院に受診しました。

病院に行くと、病院の先生、回答一番、浮腫んでないですか?

いいえっていうと、顔が浮腫んでますね。足見せてくださいって言われ、足を見せると「ほら浮腫んでますね」って言われました。

で、尿検査と血液検査をし、明日来てくださいって言われました。


すると翌朝、突然うちに電話がありました。病院からでした。

検査の結果、尿淡泊もあり、血液検査の結果も異常なので、直ぐ紹介状を出しますから、病院に寄り、紹介する大きな病院に直ぐ行くように言われました。


その病院に行くと、ネフローゼ症候群です。命に関わるので直ぐ入院してくださいって、緊急入院するようにって言われたんです。

ネフローゼ症候群というのは、腎機能の何かの異常で濾過する部分に異常が起こり、淡泊が漏れてしまい、尿が出なくなってしまうという病気です。

結果浮腫んでしまうんですが、なんと外に出ずに体に溜まった尿が胸まで溜まり、このままほうっておくと脳もやられるし、死んでしまうと言われました。

それで緊急入院を勧められましたが、入院する準備もあるし、何よりもお正月を病院で迎えるのはさすがに嫌で、わがままを言い、お正月明けまで執行猶予(笑)をもらいました。


入院すると、腎細胞の一部を摘出し、結果、薬は効きますが、再発する可能性が限りなく高く、薬が減ると再発する確率が高いと言われました。

それでプレドニンというステロイド剤を飲むこととなったんですが、一日120mgです。

いろんな副作用もあり、精神的にも落ち込んだりしました。


1ヶ月入院し、ステロイド剤が一日60mgまで減ったところでの退院でした。


再発の不安を抱えながらここまできましたが、感謝なことに再発することなく、薬も徐々に減って行き、先月から一日3mgまで減ったんです。

そして昨日、受診すると先生から、尿淡泊もなく順調です。このまま行ってくれれば、年明け位をめどに薬を無くしましょうって言われました。


ここまで、本当に長かったです。

もちろん再発のリスクはありますので不安はありますが、主が支えてくださったことただ感謝です。


これからも主に信頼します。

この病気もまた、主に信頼するように、ご自身の栄光を現されるために与えられたものです。


主よ、感謝します

全ては主の御手の中です。


でわでわ~
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こんにちわ~

今日も一日が終わりました。

どうやら真夏は今日で一旦お休み、明日、台風11号が西日本に直撃するとのこと、被害が無いことを祈るばかりです。



さてさて、今日なんですが、一日、ひとつの賛美が心に響いていました。

とても古い曲なんですが、ふと思い出したんです。




 
もしも今 キリストが
この地上にもどって 来られたら
心の用意は できていますか
主に会う準備は いいですか
 
1、天の雲に乗り 輝く栄光
あらわしながら やって来るから
 
心の用意は できていますか
主に会う準備は いいですか
 
2、御使いたちは すべての人を
神の御前に 集めるから
 
3、その日その時は、盗人のように
誰にもわからず やって来るから
 
☆★○☆★○☆★○☆★○☆
 



今日は歴史的な一日で、ついに安保法案が可決、強行可決してしまいました。

これで70年間守られてきた平和憲法が崩され、戦争が身近な時代となってしまいました。


正直のところ、暗闇の時代であり、日本だけではなく、世界的な今の流れを見ていると、本当に終末の時代が近く、いよいよ大患難時代がいつ来てもいい時代なんだなって実感させられます。



この曲なんですが、一部問題があり、それはイエス様の再臨と携挙がごっちゃになっているところです。

ここではイエス様の再臨とその後の審判のことを言っているようにも見えますし、携挙の後のキリストの御座の裁きのことを言っているようにも見えます。

聖書的に見ると、問題はあるんですが、でも、言いたいことは伝わってきます。


この曲、昔よく賛美していたんですが、あの時代と今とはまた大きく違っていて、今、すごく実感として感じられるし、緊迫感も感じます。

そう携挙は近いんだなってね。



携挙って何???って思われている方もいるかもしれませんね。

携挙って、空中再臨ともいうんです。



第一テサロニケ4:15~18

 4:15 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
 
 4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
 
 4:17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
 
 4:18 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
  


このみことばにあるとおりで、ある日ある時、イエス様が天から空中に降りて来られます。

すると、まず先に亡くなったクリスチャンの人たちがみがえり、天に引き上げられ、次にその時生きているクリスチャンたちが天に引き上げられます。

これは順番としてであって、一瞬の内にです。


よくある質問で、お風呂に入っているときどうなるのかとか、新しい服を日頃から着た方がいいのかとか、そういう笑い話のような質問をする人がいますが、どうなるかわかりません。

聖書は義の衣が用意されているとあります。

ただ思うんですが、今裸であることに抵抗があるのは罪の結果ですよね。最初の人アダムと女は罪を犯す前は全裸であっても問題はありませんでした。

つまり、その時は栄光の体に変えられているのですから、そういう羞恥心から完全に解放されています。

ただ、千年王国は罪人も一緒に生活しているから、服は着ています。おそらく義の衣で、神様から直接与えられることでしょう。

実際はその時にならないとわかりませんし、そんなこと考える必要もないですよね。



さてさて、話を戻しますが、聖書的には、もう携挙が起こる前提はすべて終わっています。

今この瞬間にあっても、全くおかしくありません。


そのあと、7年間の大患難時代に突入し、最終年、つまり7年目にその時生存しているユダヤ人が全員イエス様を見上げ、涙ながらに悔い改め、イエス様を求めます。

その彼らの祈りに答え、イエス様が再びこの地に来られるのです。

その時には王としてです。


今、携挙があってもおかしくありません。

その準備は出来ているでしょうか?


携挙されなかった人たちはどうなるんでしょう?

世界は統一政府によって一つになり、一つの貨幣となり、反キリストの人がこの地を治めます。
 
そして天変地異が起こり、地獄のような時代となります。

ただ希望なのは、そんな大患難時代、7年間の内の前半の3年半の間に多くのユダヤ人が救われ、そのユダヤ人の中の14万4千人の人たちが世界中に伝道し、多くの異邦人が救われます。

でもね、そのあとに待っているのは大迫害であり、苦しみです。


携挙は恵みです。この恵みに与るためには、イエス様の十字架と復活を信じることです。

時間はないんです。


今回、本当に終末に一歩踏み込んだという実感をしています。

そして、いつ携挙があってもおかしくない時代、目を覚まし、祈り備える必要がありますね。



ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい(18)

携挙は私たちクリスチャンの希望です。この携挙を待ち望み、お互いに励まし合っていきましょうね。

だって、携挙は本当に恵みであり、喜びなんですからね。


このようにして(携挙されることにより)、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります(17)

イエス様と直接お会いし、いつまでもイエス様と共にいることとなるのです。

そして、霊的には男であっても女であっても関係なく、私たちクリスチャンは花嫁であり、花婿はイエス様です。

今は婚約の状態で、まもなくイエス様が私たちを迎えに来られます。それが携挙なんです。

そして、携挙されたあと、イエス様との結婚式が天においてなされるのです。


ここに希望があるんです。この地には何の期待も希望もありません。

私たちの希望、それは携挙なんです。だから、携挙の恵みを分かち合い、励まし合い、備え、祈るのです。


お互いに携挙を待ち望み、多くの人がこの恵みに与れるよう、祈っていきましょうね。


でわでわ~


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